ニューヨークのブルックリンにあるタバコ屋。雇われマスターとタバコ屋にたむろする常連客。この映画は『スモーク』の続編、というか番外編である。舞台は二つの映画ともまったく同じで、主演もともにハーベイ・カイテルである。
『スモーク』はP.オースターがシナリオを書き、ウェイン・ウォンが監督をした。テーマは「嘘」というか「フィクション」。それがかろうじて人びとの現実を支えさせている。カイテルが万引き少年の落とした財布を家に届ける。出てきた黒人の老女は「わかってたんだよ、おまえがクリスマスの日にエセル祖母ちゃんを忘れるわけないもの」といってカイテルを抱きしめる。彼女は目が見えない。彼はためらいながら、彼女を抱き抱える。で、ふたりでクリスマス・ディナー。
ぼくはこの映画を見る前にシナリオの方を先に読んでいた。で次のようなやりとりが気にいっていた。「物質世界なんて幻影だよ。ものがそこにあるかどうかなんて問題ないさ。世界はおれの頭の中にあるんだよ。」「だけど肉体は世界の中にあるだろうが。(間)誰かが泊めてやるって言ったら、君、かならずしも拒まんだろう?」「(間。考える)そんなことしてくれる他人なんかいないよ。ここはニューヨークだぜ。」 残念ながら映画にはこのセリフがなかったが、映画を見た印象は、やっぱりこのセリフに象徴されるようなものだった。フィクションをかぶせなければ、とても現実を受け入れることなんかできないし、自分の存在を実感することもできない。そう、そんな風に感じるのは、ニューヨークに生きている人たちに限ることではないはずである。
『ブルー・イン・ザ・フェイス』のアイデアはこの映画を撮っている最中に生まれた。参加した役者やミュージシャンたちと意気投合して、ほとんどアドリブで作ったようである。ルー・リードのニューヨークについての話。ジム・ジャーミシュがタバコ屋に最後のタバコを吸いに来るシーン。マドンナの歌って踊る電報配達人。マイケル・J.フォックスが店先で奇妙なアンケート調査をする。「トイレでしたあと、出たモノを見るか?」
こちらのテーマはたぶん、ニューヨーク、というよりはブルックリン礼賛だろう。嫌煙ムードが強まる一方のニューヨークでは、ブルックリンだけが、あるいはこのタバコ屋だけが気分良く吸える唯一の場所。しかし、そんなブルックリンを、ドジャースはとっくの昔に捨ててロサンジェルスに去った。今は黒人が半分でユダヤ人とプエルトリコ人がその残りを二等分している街。犯罪、街の老朽化、失業..............。ノスタルジアとしてのブルックリン、そしてタバコ。
ブルックリンに一番近いのは、大阪の下町かもしれない。そう、新世界のあたり。そういえば、ここでもホークスが難波を離れて、福岡のドームに本拠を移した。「ネイバーフッドの息づかい」。ぼくももうずいぶん長いこと忘れていた情感。それが映画の世界となって、説得力をもってよみがえってきた。もっとも、東京の郊外育ちのぼくには、そんな世界がノスタルジックに思えるはずはないのだが.........。
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