『ハリケーン』は世界チャンピオンだったボクサー、ルービン・カーターの物語である。彼は10代の大半を少年院で過ごし、また30代と40代を刑務所で過ごした。しかもどちらも、黒人差別に根ざした不当逮捕。獄中から何度も再審請求をし、モハメド・アリやボブ・ディランが支援したが、却下された。そしてその主張が認められて釈放されたときには。ルービン・カーターはすでに50代になっていた。『ハリケーン』はその実話にもとづく映画で、主役を演じるのはデンゼル・ワシントン。僕はディランの歌で、その話を知っていたから、楽しみにしていた。
映画は一人の黒人少年に光を当て、ルービンが書いた自伝への関心と、そのあとに作られる二人の関係を軸に描かれている。同じように貧しい家庭に育ったが、環境保護運動をするカナダ人たちに引き取られて、高校に通う。その幸運に恵まれた自分の境遇とカーターの不幸の違いが少年の心を突き動かす。そして彼の気持ちを全面的にバック・アップするカナダ人たち。
映画そのものはハリウッド映画の常套手段で、主人公の苦悩や挫折にもかかわらず黒人少年の献身的努力でハッピーエンド、例によっての法廷での感動的な弁舌といったもので、少年を支えるカナダ人はまったく非人格的といっていいほどに心の葛藤や日常生活を捨象して描かれているが、それでも、夢中で見てしまった。原因はやはり、ディランの歌にあったのだと思う。
ピストルが響いた酒場の夜
パティ・バレンタインが降りてきて
バーテンが血の海に倒れているのを見る
「たいへん、みんな殺されている!」
というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
なにもしなかったのに 独房にいれられた
だがかつては 世界チャンピオンだったはずの男
改めてディランの「ハリケーン」を聴きなおすと、この歌が事件の経過を忠実に物語っていることに気がつく。バラッドとはまさにこういう内容の歌をいうのである。「みなさん聞いてよ、こんなことがあったんだ」。と語りかけながら、ことの真相や問題、あるいは結末を歌う。バラッドは新聞が登場する以前からあったジャーナリズムの原初形態で、それがフォークソングやロックに引き継がれた。おもしろいのは、その形式がラップにもしっかり残っていることだ。映画に挿入された同名の曲「ハリケーン」を歌うのはヒップ・ホップのザ・ルーツ他。
究極の犠牲を払うとはまさにこのこと
ハリケーンはずっと投獄されていたのさ
地獄の底に突き落とされ、刑務所の中で男は成長した
彼は自分のやるべきことをやり、リングの王者になった
話題になりはじめたハリケーンを当局の奴らは封じこめようとしたのさ
ヤツらは彼を陥れ、牢獄にぶち込んだ
ことばは映像と違って簡潔だ。「血の海」の一言に、凄惨なシーンをイメージさせるのは受け手の役目だからだ。もちろん、そのことばに送り手が感情を込めることはできるが、それはあくまで、受け手がそれぞれにイメージさせるものに働きかけるにすぎない。一方映画はイメージそのものをつくりだすことで成り立つ表現手段だから、受け手は現実に近いものに直接立ち会うように経験する。そこにことば以上のリアリティを感じることもあれば、またかえってうそっぽさや陳腐さを受けとることも少なくない。『ハリケーン』でも、そういった作りすぎの描写にしらけたり疑ったりすることもあったが、また映画ならではというシーンも多かった。
シーンの多くは独房でのカーターの表情。デンゼル・ワシントンの顔の演技は見応えがあった。絶望や希望、不安や安堵、怒りや喜び、そういった感情を微妙な顔の表情でどう表現するか。これは映像ならではの描写だと思った。
映画俳優の仕事の特異性は、その演技を観客に対してではなく、カメラという無反応の機械の前で演じるところにある。それをいちはやく指摘したのはベンヤミンだった。観客は、役者が機械を相手にした演技を、あたかも至近距離で見ているかのようにして経験する。映画はそれが作られる場と公開する場が断絶していることによって成り立つ表現手段。そのことを自覚するのは写し取られる者だけであって、ふつうは観客は無自覚に見てしまう。デンゼル・ワシントンの演技に惹きつけられている自分を自覚しながら、時にボクサーになったり、弁護士になったり、刑事なったりするする映画俳優の仕事の奇妙さについて考えてしまった。
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