Book Review

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●最近読んだ本

伊藤守『記憶・暴力・システム』(法政大学出版局)


最近のテレビには気になるところがずいぶんある。たとえば、事件が起きたときにくりかえされる、きわめて感情的な報道、バラエティ番組の多さ、というよりは何でもバラエティ形式にしてしまう安直で画一的な作り方、特定の話題、人物への極端に偏った注目等々、あげたらきりがない。
テレビは一見、新しいモノゴトをいち早く伝えるメディアのように思われるけれども、そこにはきまって、古いおきまりの味つけがされている。常識はずれをやっているように見えても、またきわめて常識的な枠取りがされている。だから、わかりにくさは排除されるし、多様性は無視される。その意味で、テレビは保守的なメディアだが、このような傾向が、ますます顕著になっている気がする。テレビなんてしょせん、そんなしょうもないメディアだ!と言ってしまえばそれまでだが、一方でその影響力はものすごく大きい。
伊藤守の『記憶・暴力・システム』は、そんなテレビの力を、それをささえる社会やテクノロジーのシステム、介入する政治的・経済的権力、そこで使われる「言説」の特徴や作り出される「テレビ的リアリティ」の分析をテーマにしている。テレビについて批判理論を展開させようとする意欲作だと言える。この本が最初に問題提起しているのは、おおよそ次のようなことだ。
だれかが何か発言しようと思う。あるいは発言せざるを得ないと感じたとする。それはおそらく、大多数が共有する価値や見解とは相容れないか、あるいははずれたものだ。そうすると、どういうことが起こるか。メディア、とりわけテレビはまず、それを無視しようとする。無視できないものであれば、大多数が共有するはずの「常識」を盾にして、あるいは矛にして批判し、押しつぶしにかかる。あるいは論旨のすりかえといったこともあるだろう。その意味で、テレビに自由で気ままが許されるのは、あくまで「常識」の範囲内のことにかぎられる。
大多数が共有する価値や見解を「常識」として押し付ける強力な圧力を形成するメディア、日々の経験を自明なものに編制し、しかもその自明性を、変化をともないながら組み替える強力なパワーをもったメディアに焦点をおきながら、メディア文化の生産と消費をふくむコミュニケーション構造全体の問題と、それを消費するオーディエンスの行為を考えることが本書に収録した文章の狙いだった。(p.vii)
政治的な対立点が曖昧になり、ことの善悪も真偽もわかりにくい世界になっている。そんな中でテレビは、一方でなかば無意識のうちにおこる感情や欲望に訴えかけ、他方でまたきわめてわかりやすい常識や慣行を持ち出してくる。みずから火をつけ、事を荒立てておきながら、またあたかも裁判官のような態度をしめして、それを沈静化させようとする。テレビは曖昧な世界をますます増幅させるが、そうであればこそなおさら、それをわかりやすくすることにも懸命になる。まさに「マッチ・ポンプ」の世界である。
もちろん、視聴者である私たちは、そのような意図にまったく無自覚だというわけではない。むしろ、そんなテレビをけなし、冷ややかに嗤うことを視聴態度の一つにさえしている。けれども、できるのは、その程度のことでしかない。テレビに映ったものへの関心度に比べて、映らないものへのそれが、ほとんどゼロに近いとすれば、どんなに批判的な態度をとったとしても、テレビに囲い込まれていることに違いはないのである。
つづく