「孤独」は今一番嫌われることばのひとつかもしれない。群れること、みんなの中に埋もれること、情報をやりとりすること。こんなことが一番の関心事で、それは必ずしも若い世代だけにかぎった傾向ではないようだ。どうして「孤独」はそんなに忌避されるのだろうか?
確かに「孤独」には、排除される、自分の場所がなくなる、自分の存在が消えさってしまうといった側面がある。しかし、それはまた自分が自分であることを確認するためには必要な状態であるし、想像力や創造力を駆使するときにも欠かせないはずだ。自分という存在を、他者によって認めてもらう受け身的な姿勢が前者だとすれば、後者は、他者に認めさせる積極的な姿勢。だとすると、他者への自己の提示のスタイルが受動的になったということなのだろうか?
『思想としての孤独』のキイワードは「透明」と「分身」。透明人間は、どこにいても誰からも気づかれない存在、そして分身は自分がいるはずの場を占有するもう一人の「私」、あるいは「他者」である。
透明人間には誰もが一度はなってみたいと思う。自分の存在を知られずに他人たちを眺めることができる。覗きや盗聴に対する誘惑。けれども「透明」はまた、その場にはいてもけっして参加することができないし、見ることはできても見られることのない存在でしかない。それに気づいたときの「孤独」は、他人から見られることで感じる不安や煩わしさと裏腹である。
「分身」は、自分のコピー、あるいは代役である。これもまた、自分がもう一人いたらどんなにいいかと空想するものだが、同時に、自分の場所や自身自体を奪いかねない存在になる。かけがえのないはずの「私」。「分身」はそれを代行する。そう考えたとき果たして「分身」は便利な相手か、あるいは恐怖の対象だろうか。
この本はこのような軸をもうけて、主に文学作品を題材にしながら考えている。読みこなすにはかなりの文学的な知識が必要だが、しかし、その例を日常的なものに置き換えることは容易だ。というよりは、ぼくは読みながら、勝手に一人歩きをはじめる自分の想像力をおさえることができないほどだった。読む私と、勝手に想像の世界をうろつきはじめる私。まるで、透明人間のように、あるいは分身のように。
例えば、雑踏の中で誰もが暗黙のうちに示す「無関心」。満員電車の中で押しくらマンジュウをしていても、自分をそこにはいない人のように振る舞う人たち。あるいはエレベーターの中で感じる息が詰まりそうな沈黙に耐える人たち。もちろんだからこそ、また誰もが匿名の存在として好き勝手ができることにもなる。「匿名」は「透明」、あるいは「分身」?
家庭で、学校で、あるいは職場で、確かな位置を占めていたはずの「私」。ところが、いつの間にかその場所がなくなってしまったり、他の誰かに占拠されたりする経験。離婚、失恋、いじめ、左遷、リストラ………。「分身」には例えば二股かけた恋愛や妾さんのいる別宅といった不純な夢を、また多様な能力をもつマルチ人間を空想したくなるという側面があるが、また、分身によって消される「私」という悪夢もある。
もう一つ「死」の問題。著者が引用するP.オースターの『孤独の発明』を紹介しよう。
私は思い知った。死んだ人間の遺していった品々と対面するほど恐ろしいことはない、と。それらは手で触れられる幽霊だ。もはや自分が属していない世界のなかで生きつづける責め苦を負った幽霊だ。たとえば、クローゼットいっぱいに入った衣服。
「孤独」を「透明」と「分身」によって考える。それはきわめて社会学的な発想で、しかも何と想像力を刺激するものか。ぼくはこの本を読みながら、そのことをくり返し確認した。だからだろうか、読み進むうちにこの本の題名に違和感をもちはじめた。この本は断じて「思想」などではない。強いていえば「物語としての孤独」、あるいはもっと率直に「透明」と「分身」。
本の著者はその中身を作る。題名や装丁やキャプションを考えるのは編集者の仕事だ。一般的には本はそんな分担作業で作られる。編集者は黒子、つまり透明人間で、作者や本の世界を目立たずに際だたせる役割をもつ。この本の表紙には次のようなキャプションがつけられている。「自主独立の近代人『ロビンソン・クルーソー』の末裔である私たちが彷徨う、『孤島』と『砂漠』が充溢する都市の風景」。「彷徨う」とか「充溢する」という大げさなことばを使って、いったい何が言いたいんだろうか。作者とはまったく違う顔をもった出しゃばりな分身。
とは言え、「思想」つまり「孤独」の積極的な評価の部分が薄いことは、ぼくにとって、ものたりなさを残した。「戦略としての孤独」とまではいわないが、孤独で何が悪いといった一面があってもよかったのにと思う。 |