Book Review

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●最近読んだ本

5月7日


原発事故についての2冊の本

伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたのか 』平凡社新書
加藤典洋『3.11 死に神に突き飛ばされる』岩波書店


journal1-151-1jpg 大飯原発の再稼働が、この夏の電力需要の必要性を理由に強行されようとしている。福島原発の危険な状態が続いていて、事故の原因も責任の追及もはっきりしないままに、政府や財界は原発が必要だという空気を作り出そうとしている。都合の悪い情報を隠すというのは3.11以降一貫した政府や経産省、そして東電をはじめとした電力会社の常套手段だが、マスメディアも相変わらず、そのことを批判して、情報の開示を迫るわけでもない。こういった姿勢は一貫して事故以来変わっていないが、それだけに、その不当さを事故発生時にさかのぼって検証する仕事がどんどん出てくることが大事だろう。

伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたか』は事故が起こった3月11日から17日までの一週間に限定して、原発事故に関連したテレビの報道を検証している。この本で明らかにされているのは「原発事故と住民の避難にかかわるさまざまな情報に関して、情報の隠蔽、情報開示の遅れ、情報操作等のさまざまな問題」があったことと、そこに批判の目を向けずに、ただ追随したかに見えるマスメディア、とりわけテレビの姿勢である。このような指摘は、事故直後から多くの人によってなされてきたから目新しいものではないが、放送された関連番組のほとんどをテクストとして書き起こして検証した上での分析と批判だから、個人的な視聴経験の記憶を超えた説得力をもっている。

読み進めながら感じるのは、刻一刻と深刻化する想定外の事故に戸惑いながらもなお、事故やその影響を極力小さく見せることに懸命だった政府と東電、そしてテレビ局と、番組に呼ばれた御用学者や専門家と言われる人たちの姿勢である。彼らは、原発の安全神話が打ち砕かれた後も一貫して、想定外の事故として責任逃れに腐心し、「ただちに人体に影響はない」に象徴される「安心・安全」の言説を繰り返したが、一方で、ネットからは全く見方の異なる情報が発信されていた。

本書の最後では、そのテレビとネットから発信された情報の対比もなされている。YoutubeやUstreamには事故直後からフリーのジャーナリストや原発に反対してきた専門家や組織を中心にして、マスメディアとは異なる報道がなされてきた。その情報内容は、「政府の公式見解だけを伝える既存メディア」とは対照的に事故の深刻さを伝えたから、マスメディアの報道は「大本営発表」と言われるほどに批判され、不信感をもたれるものになった。

journal1-151-2jpg 加藤典洋の『3.11 死に神に突き飛ばされる』は、彼が震災時にカリフォルニアにいて「大地震がもたらした甚大な被害と原発事故のニュースを「椰子の葉の揺れる平和でのどかな空の下で見聞き」した話から書き始められている。加藤はこのニュースに触れた後、福島に住む親戚や友人のために「安定ヨウ素剤」を買って送ろうとしたが、それが40歳以上の人にはほとんど意味のない薬であることを知って次のような気持ちになったという。
大鎌を肩にかけた死に神がおまえは関係ない、退け、とばかりに私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった。(p.21)
彼は三月末に帰国して、南相馬に住む友人を訪ねた。そこで彼が知ったのは、日本のマスメディアがすべて、事故発生後に福島市に撤退したことだった。だからテレビ映像は30kmも離れたところから撮られた福島第一原発ばかりを映していたし、屋内待避の指示を受けて留まった人々の声が直接放送されることもなかった。一方でそれほどの用心をしておきながら、他方では「ただちに人体に影響はない」を繰り返す。その身勝手さや無責任さから感じた日本のマスメディア批判を彼は次のようにまとめている。
1)メディア的に見捨てられた場所があれば、メディアは、そういう地域の住民に責任がある。そういう人々がいる場合、その人々を報道しなければならないということです。その姿勢が、メディアの公共性を支えているからです。
2)メディアは、こういうとき、政府と共同歩調をとるべきではないということです。(p.29)
政府もメディアも専門家も信用できなければ、事故処理の過程や今後の原発と電力の関係について、政治や経済、社会、そして専門的な科学知識も含めて、自ら考えて、自分なりの見通しや哲学を作り出す必要がある。原発の現在と未来について加藤が出した結論は、再生可能エネルギーの開発を急ぐことと、暮らしの質を見直すこと、そして既存の原発については、その安全性についての詳細な検証をした上で、つなぎの電力源としてしばらくは使い続けるというものだ。

事故の処理、原発の解体、核廃棄物の処理に長い時間と巨額の費用がかかるのなら、これはかなり安全だと説得できるものだけを動かしてもいいのではないか。僕はすべてを即刻停止することに賛成だが、経済原則だけでなく、政治や社会、そして何より人間や自然に対する倫理観を基本にした政策が打ち出せるのなら、彼の提示した見取り図は一考に値すると思った。


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