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6月13日 |
・大きな災害に不意に見舞われたとき、人びとはどのような思いに囚われ、どのように行動するか。このような問に対して、もっとも一般的な答えは、我を失った人びとが起こす集団的なパニックという現象だろう。だから、国の政府や自治体は、そうならないように情報を管理し、警察や消防、あるいは軍隊(自衛隊)を出動させて、パニックによる大混乱という事態を避けようとする。 ・それは、東日本大震災と福島原発事故への政府の対応を見ても明らかだ。幸い、今回の大災害では、どの時点においてもパニックによる大混乱は起きなかった。そのことに驚き、日本人の冷静さを賞賛する声も、海外から多く聞かれた。けれども、福島市や郡山市の放射線量は、とっくに避難しなければならないレベルに達しているのに、場当たり的に許容量をあげたり、データ収集に不熱心だったりして、多くの人びとは不安をかかえながらも日常生活をしている。 ・レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は1906年に起きたサンフランシスコ大地震から2005年にハリケーン(カトリーヌ)に襲われたニューオリンズまでの五つの事例をもとにした、人びとの行動の分析である。著者がどのケースにおいても注目するのは、パニックではなく、被災した人たちの中に自発的に生まれる「相互扶助」の気持ちと、それによって出来上がる「ユートピア」である。著者はその点を力説して、原題を「地獄にできた楽園」と名づけている。 ・どんな災害であれ、被災をした人たちは、たちどころに衣食住のすべてを失って、途方に暮れてしまう。政府や自治体などの公共機関や私的な援助活動が動き出すまでには時間が必要で、それまでの間のひもじさや寒さ、そしてもちろん不安や恐れの感情を和らげてくれるのは、同じように被災した人たちの相互の助け合いである。そのことによって、普段はほとんど無関係に暮らしていた人たちの間に、同じ地に住む者同士という「コミュニティ」の意識が実感されたりもする。ソルニットがそれぞれの事例について、膨大な資料をもとにして強調するのは、パニックや無法地帯における暴動ではなく、人びとの中から自然発生的に生まれる「ユートピア」なのである。 ・ところが、大災害時における国家の災害対策は、何よりパニックによる大混乱の回避に重点が置かれる。その過剰な取り締まりや情報の統制が、かえって暴動の原因になり、人びとに恐怖や不安の気持ちを募らせる。で、多くの人が捕らえられ、殺されもした。1906年にサンフランシスコ大地震で起きたことが、その1世紀後のニューオリンズでもくりかえされた。人びとの間に生まれる相互扶助の気持ちは、いわば既存の秩序が崩れたときに人びとの間に自覚されはじめる「自生の秩序」である。このことに気づかず、あるいは過小評価し、さらには意図的に覆い隠し、妨害しようとするのは、誰より権力の座にある者たちと、マスメディアなのである。要するに、為政者やメディアは、自らの力で統制できない人びとの動きや考えには、それが何であれ、無視したりつぶしたりしたいのである。 ・この本を読むと、3.11以降の政府や東電の対応と、被災した人びとが抱いた思いや行動、そして関係の取り方との間に生じた大きなズレがよくわかるように思う。原発事故の実態について情報隠しをしてきたのは、それによるパニックや風評被害の拡大を恐れたからではなく、自らの責任を免れたかったからである。震災から3ヶ月目の11日に全国各地で反原発を訴えるデモがおこなわれた。主催者が目指した100万人規模の行動になったのかどうかはわからないが、これほどのイベントをテレビのニュースはごく簡単にしか触れなかった。その代わりに、電力会社が発する夏の電力不足とそれに対応するための原発の再運転については、コメントなしに大きく報道したりもしている。 ・この本にはメキシコ市で1985年に起きた大地震がメキシコの圧政に対する批判を引き起こして、民主化に向かう大きなきっかけになったことが指摘されている。それを読んで思うのは、原発事故をきっかけにして気づかされた原発の怖さや、それを過小評価して原発を推進してきた国の政策に対する批判をもっともっと大きなものにする戦略だろう。それは第一に、人びとの中から自生する意見として集約されるべきものであって、政治家やメディアによって啓蒙されるものではない。 ・退陣を迫られている菅首相は、日本全国の原発の即時停止と原発政策の白紙撤回、そして発送電の分離を政策として提案し、国会での批判が強ければ、それを理由に内閣を解散したら衆議院の選挙は原発を巡る国民投票というはっきりとした論点になる。そうなって困るのは、被災地の人びと以上に政治家や関連企業、そしてメディアであるはずなのである。 |
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