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2006年11月 アーカイブ

2006年11月24日

Love and Betrayal: The Mia Farrow Story

・ウッディ・アレンのスキャンダルは僕にはちょっとショックだった。ミア・ファーローの連れ子にセクハラをしたという意味あいで伝えられたからだ。しかし、そんな生々しいスキャンダルが実名で映画になってしまうのには、もっと驚いてしまった。すごいとかひどいと思ったが、たまらなく興味もそそられた。これだからゴシップは廃れることがないのだな。改めて納得した気になった。で、映画はというと、すごく真面目につくってあった。ウッディ役がうまくて、僕は途中から、まるで本人がやっているような錯覚を起こしてしまった。
・ウッディが好きになったのはミアの長女だが、彼女は実子ではなく中国人のハイティーンである。ミアは彼女のほかに人種の異なる養子を何人ももらっている。当然ウッディとミアの生活にはそんな子どもたちの存在が大きな位置を占めるようになる。そして二人は入籍をしないままに何年もすごす。長女とウッディの関係はミアにとってはとんでもないことである。しかしウッディにはあまり罪の意識はない。彼女は娘に「育てた恩を裏切って」と言う。しかし、娘はその義母がハイティーンの時に妻帯者であるフランク・シナトラと不倫をしたことを知っている。だから、「同じことじゃない」と反論する。何より、ミアとウッディは法律的には他人同士なのである。
・ミアとウッディの間には一人女の子ができている。名前は「ディラン」。女の子につけることができる名前だとは知らなかった。ミアはウッディがその娘にイタズラをすることを理由に裁判にうったえた。そこのところは裁判所でも結論は出なかったようだ。ことの次第がわかってくると、ニュースで伝えられた印象とはちょっと違う関係が見えてくる。結婚と離婚をくり返し、必要なら、様々な形で養子をもらう。そんな生き方はアメリカでは決して一部の人だけの特殊な現象ではない。そんな複雑な関係を「家族」というスタイルで維持しようとすれば、関係はますますこんがらがってしまいかねない。僕はこの映画にそんなアメリカ人の生活の一面を見た気がした。スキャンダルを題材にして注目を集めようとした映画であることは間違いないが、僕はそこに、同時に、作り手の誠実さを見た気がした。(97.2.24)

『デカローグ1-10』クシシュトフ・キェシロフスキ

・『トリコロール』三部作で知られるK.キェシロフスキはポーランド出身の映画監督だが、去年54歳で死んだ。『トリコロール』の三部作や『二人のベロニカ』を見た印象は、愛をテーマにして、人間関係を微細に、しかも自然に描くのがうまい人というものだった。彼が1987年にテレビ・ドラマとして制作した『デカローグ』の十話は、そんな印象をより鮮明にさせるような作品だった。十の話には、それぞれ「ある〜に関する話」という簡単なタイトルがついていて、〜には「運命」「選択」「クリスマス・イヴ」「父と娘」「殺人」「愛」「告白」「過去」「孤独」「希望」が入る。
・病気で生死の淵をさまよう夫のいるドロタの身体には、別の男性との間にできた子どもがいる。その子を産むべきかどうか、夫に告げるべきかどうかで彼女は悩む。それは同時にどちらの男を「選択」するかという決断を含む。十の話の中には男女の愛を描いた作品が他にもいくつかある。インポテンツになった男が、その妻に対して罪の意識を抱くが、同時に妻の浮気を疑う。尾行、盗聴をしながら、なおかつ彼はそんな自分を責める。「孤独」と苦悩。「クリスマス・イヴ」の一夜を描いた話には別れた男女が登場する。再婚して子どももいる男の家の前に女がいる。彼女は帰宅した男に、現在一緒にいる男が夜になっても帰ってこないことを告げる。交通事故か、あるいは何かの事件に巻き込まれたのか。家でクリスマス・パーティをするつもりだった男は彼女と一緒に街に探しに出かける。そして夜が明ける頃に、彼女は男とはすでに別れていること、寂しくて一人ではイヴの夜を過ごせなかったことを話す。男が家に戻ると、妻が寝ずに待っている。
・あるいは親子について。父と二人で暮らす娘アンカには、父親を男としても愛しているという気持ちがある。それは父親にもあるが、しかし、彼はいつでも自制心を強くして、「父と娘」という関係の一線を越えまいとする。突き放す父と反抗する娘は、またどうしようもなくひかれあう。「告白」は16歳で子どもを産んだ娘と母の話である。学校の校長先生をする母は厳しく、娘はその母の期待には応えられなかった。母は孫を子どもとして育て、その子に生きがいを見いだす。けれども、娘も、産んだ子どもが必要だと感じるようになる。彼女は妹を連れだし、恋人だった男の家で、妹に自分の娘であることを「告白」する。生きがいとアイデンティティの確認をめぐって少女を奪い合う母と娘。
・どれもこれも、愛や憎しみ、エゴイズムや自罰意識に囚われた地獄のような世界だが、しかし、描き方は淡々としていてストーリーはシンプルだ。すべての話がワルシャワにある同じ集合住宅を舞台にしているし、俳優も地味だ。話には必ず、かすかな救いが残されている。だからだろうか、見ながら、とんでもない状況に入り込んだ特別な人たちの話ではなく、自分の中にもある感情を自覚させられる思いがした。一歩間違えば、それは誰にでも訪れそうな世界。いや、実際にはすぐそこにあるのに、自分はそうではないと否定したり、気づかないふりをしているにすぎない世界。そんな感想を、どの話にも持った。
・しかし、それにしても、テレビ・ドラマのシリーズをこんな作品として作ってしまうキェシロフスキはすごい。他の映画がまるで紙芝居のように感じられてしまった。けれども、キェシロフスキはもういない。人びとの生きる世界は多様だが、それを自然に描き出せる人は多くはない。(1997.05.20)

『恋人までの距離 Before Sunrise』、『Picture Bride』

・続けておもしろい恋愛映画を見た。まず『ピクチャー・ブライド』。明治のはじめに横浜で両親と暮らしていた娘は、両親が肺病で死んだことで、もう日本には住めないと聞かされる。叔母は代わりにハワイ行きを勧める。お互いが交換するのは一通の手紙と一枚の写真だけである。で、彼女が花婿に会うと、案の定、写真は20年も前に撮ったものだった。「私のお父さんと変わらない歳の人」。彼女は日本に戻りたいと思う。
・この映画は日系三世のカヨ・マタノ・ハッタが監督をしているが、ベースは彼女の家族の歴史、つまりおじいちゃんとおばあちゃんの話である。愛を前提としない結婚、サトウキビ畑での重労働、一旗揚げようという野心、そして日本人コミュニティ。少しづつ夫に心を開いていく主人公の心の変化を工藤夕貴がうまく演じていた。
・もうひとつは『恋人までの距離』。ブタペストからパリに向かう列車の中でアメリカ人の青年とフランス人の女子大生が出会う。彼はウィーンから飛行機で帰国するのだが、意気投合した彼女は、途中下車して一晩つきあうことにする。列車の中から始まって、ウィーンの街、そのカフェやディスコ、公園を夜通し歩き回る。背景は変わるが、この映画の中心にあるのは最初から最後まで、二人の会話である。
・二人は当然、最初からお互い気に入っている。一目惚れである。けれども、そんなことは一言も言わない。「飛行機が出るまでの間。一緒に話をしよう」「えー。いいわ」という感じでできた距離感がなかなか変わらない。家族のこと、お互いの恋愛経験、彼の仕事と彼女の勉強の話..........。手相占いや街角の吟遊詩人の登場。レストランで電話ゲームをやるシーンがある。二人がそれぞれ帰ったときに最初にする電話を今してみようというのである。親指を耳、小指を口にあてて、それぞれの友だちに電話をする。で、架空の電話の話し相手に、会った瞬間に好きになったと打ち明ける。
・一方に好き嫌いなど抜きにしてまず結婚するところから互いの関係をはじめようとする生き方がある(あった)。そして他方には好きにはなったが互いの状況を考えるとなかなか距離を縮めにくい関係がある。恋愛結婚とは、まさに、自分の意志で相手を決めることの制度化だが、相手が本当に自分の選ぶべきたった一人の相手なのかどうかは、結局のところわからない。
・この2本の映画に描かれた男女の出会いは両極端な設定だが、それぞれに見ていて無理のない自然な世界になっていると思った。「自然さ」といえばもうひとつ。二つの映画は共にアメリカ映画だが、片方はウィーンで登場人物はアメリカ人とフランス人、もう一方はハワイで登場人物は日系の移民と白人、それにハワイのネイティブ。使う言語がさまざまで混乱するのは当然である。そこのところがきわめて自然に描写されていたことに、最近のアメリカ映画の変化を感じた気がした。何しろ一昔前までのアメリカ映画は場所がどこであろうと誰が登場しようと、すべてが英語で完結してしまっていたのだから。 (1997.06.07)

『ブルー・イン・ザ・フェイス』

・ニューヨークのブルックリンにあるタバコ屋。雇われマスターとタバコ屋にたむろする常連客。この映画は『スモーク』の続編、というか番外編である。舞台は二つの映画ともまったく同じで、主演もともにハーベイ・カイテルである。
・『スモーク』はP.オースターがシナリオを書き、ウェイン・ウォンが監督をした。テーマは「嘘」というか「フィクション」。それがかろうじて人びとの現実を支えさせている。カイテルが万引き少年の落とした財布を家に届ける。出てきた黒人の老女は「わかってたんだよ、おまえがクリスマスの日にエセル祖母ちゃんを忘れるわけないもの」といってカイテルを抱きしめる。彼女は目が見えない。彼はためらいながら、彼女を抱き抱える。で、ふたりでクリスマス・ディナー。
・ぼくはこの映画を見る前にシナリオの方を先に読んでいた。で次のようなやりとりが気にいっていた。「物質世界なんて幻影だよ。ものがそこにあるかどうかなんて問題ないさ。世界はおれの頭の中にあるんだよ。」「だけど肉体は世界の中にあるだろうが。(間)誰かが泊めてやるって言ったら、君、かならずしも拒まんだろう?」「(間。考える)そんなことしてくれる他人なんかいないよ。ここはニューヨークだぜ。」
・残念ながら映画にはこのセリフがなかったが、映画を見た印象は、やっぱりこのセリフに象徴されるようなものだった。フィクションをかぶせなければ、とても現実を受け入れることなんかできないし、自分の存在を実感することもできない。そう、そんな風に感じるのは、ニューヨークに生きている人たちに限ることではないはずである。
・『ブルー・イン・ザ・フェイス』のアイデアはこの映画を撮っている最中に生まれた。参加した役者やミュージシャンたちと意気投合して、ほとんどアドリブで作ったようである。ルー・リードのニューヨークについての話。ジム・ジャーミシュがタバコ屋に最後のタバコを吸いに来るシーン。マドンナの歌って踊る電報配達人。マイケル・J.フォックスが店先で奇妙なアンケート調査をする。「トイレでしたあと、出たモノを見るか?」
・こちらのテーマはたぶん、ニューヨーク、というよりはブルックリン礼賛だろう。嫌煙ムードが強まる一方のニューヨークでは、ブルックリンだけが、あるいはこのタバコ屋だけが気分良く吸える唯一の場所。しかし、そんなブルックリンを、ドジャースはとっくの昔に捨ててロサンジェルスに去った。今は黒人が半分でユダヤ人とプエルトリコ人がその残りを二等分している街。犯罪、街の老朽化、失業..............。ノスタルジアとしてのブルックリン、そしてタバコ。
・ブルックリンに一番近いのは、大阪の下町かもしれない。そう、新世界のあたり。そういえば、ここでもホークスが難波を離れて、福岡のドームに本拠を移した。「ネイバーフッドの息づかい」。ぼくももうずいぶん長いこと忘れていた情感。それが映画の世界となって、説得力をもってよみがえってきた。もっとも、東京の郊外育ちのぼくには、そんな世界がノスタルジックに思えるはずはないのだが.........。 (1997.06.23)

『リービング・ラスベガス』

・アル中で会社を首になった男がいる。なぜそうなったのかはわからない。とにかく、彼にはアルコールをやめる気などさらさらない。もらった退職金でラスベガスに。死ぬまで飲み続ける気なのだ。ラスベガスのメイン・ストリートを酔っぱらい運転していて、若い女をひきそうになる。「赤信号は止まるのよ!」と文句を言われた返答に、「ぼくのモーテルに来ないか」と誘う。
・彼女はラトビアからアメリカに来た。男と一緒だった。で、ラスベガスでヒモつきの娼婦になった。泥酔した男はセックスはいいから話をしようと言う。「毎日200ドル払うから、金がなくなるまで来てくれ」と頼む。けれども、女は次の日、現れなかった。ひかれる自分に気づいたから、女は男を避けたのである。
・男は女をさがしだす。食事をし、もちろん酒もしこたま飲む。モーテルへ誘うと、女が「私の家に来ない?」と言う。ヒモは何かの理由で殺されたようだった。そこから二人の共同生活が始まる。女は男のアルコールづけを責めないし、男ももちろん女が娼婦であることを気にしない。ほしいのは、二人でいることでたがいの心が癒される、その時間だけである。
# けれども、お互いの距離が近くなれば、それぞれかけがえのない存在になっていく。アルコールをやめさせるために医者に行かせたいと思うようになった女と、夜になると客を捜しに行くのをとめたい男。互いの現実を認めるところから始まった関係は、そのままでは先が開けない。けれども、現実を変えようとすれば、そもそもの出会いの意味が失われてしまうし、互いに相手を束縛することにもなってしまう。ある夜彼女が帰ると、部屋で男と娼婦がいちゃついていた。で、男は彼女の家を出る。
・少年たちに殴られ、輪姦され、家の大家からも出ていくように言われた女は、たまらなく会いたくなって、男をさがす。しかし、居場所は分からない。そのままでいいから、死ぬまで一緒にいたい。そう願う女のところに電話がかかってくる。安宿でベッドから起きあがることすらできなくなっている男からだった。ほとんど声も出ないが、それでも、酒だけは飲んでいる。女は男のところへ急いだ。寝てる男はシーツを払いのけようとする。ペニスを立たせてくれと言うのだ。女は男の上に馬乗りになる。はじめてのセックス。で、その晩、男が死んだ。
・何とも切ない映画だ。救いも何もない地獄にような世界といってもいい。けれども、そんな関係のなかに、ある種のあこがれを感じさせる何かがある。絶対そんなことはできない、やってはいけないし、やりたくもない。そんなふうに思えば思うほど、心の片隅にはっきり姿を現してくる得体の知れない破滅への衝動。 (1997.07.05)

『トレイン・スポッティング』

・春先から気になる映画だったが、見るチャンスがなかった。評判はいろいろ耳に入ってきた。だからどうしても見たいと思った。柳原君は『CLIP』に「エジンバラだろうと大阪だろうと関係ない。今を生きる僕たちにはどうしようもない、逃れられないもの」と書いた。一体それは何だろう?で、本とCDを買った。
・本は決して読みやすくはなかった。ディテールはおもしろいのだが、ストーリーがうまくつかめない。ドラッグとセックス、酒場でのケンカ、友人たちとの悪ふざけ、盗み、そしてAIDSと中毒。クソや小便。何かをしたいがやることが見つからない。何者かになりたいのだが、それが良くわからないし、第一チャンスがまるでない。そんな閉塞状況。けれども、それなら、今にはじまった話じゃない。僕が10代の頃だって出口のない袋小路の世界だと言われていたのだから。ジェームズ・ディーン以来、青春映画におなじみのテーマ。
・もちろん、読むときにはサウンドトラックのCDを聴いた。イギー・ポップ、ブライアン・イーノ、ルー・リード.........なじみの人たちが多い。はじめて聴いたサウンドをふくめて、決して悪くはない。けれども、どうしても本の世界と重ならない。ジャケットには「マーク・レントンは我らの時代のヒーロー。親父には想像もつかないエジンバラの下腹部の話」と書いてある。つかみどころがない、何とも言えないもどかしさ。これはもう早く映画を見るしかないと思った。
・で、7月の末にやっと見た。京都の「祇園会館」で2本立て、もう一本は『バスケット・ボール・ダイアリー』だった。ニューヨークの高校に通うバスケット・ボールの人気選手がドラッグ中毒になる話。退学、ドラッグへののめり込み、盗み、禁ヤクと禁断症状、少年院送り、そして更正。事実をもとにしたそうで、主人公は、この自伝的小説をきっかけに小説家になりロック・ミュージシャンにもなったという。へー、聴いてみようかなと思ったが、名前を忘れてしまった。ニューヨークにはそんな話はいくらでもあるんだろうな、という気持ちにはなったが、映画としてはきわめて平凡。つまりシリアスなトーンで最後がハッピー・エンド。ちょっと前にWowowで見た『Kids』の方がずっとショックだった。
・映画を映画館で続けて2本見るのは久しぶりのこと。おまけに外は暑かったのに、中はクーラーのききすぎで風邪をひきそうに寒い。休憩に温かい珈琲を一杯。映画は家で見るにかぎるなどとぶつぶつ言っていると、「生活、仕事、経歴、家族を選べ!大きなテレビ、洗濯機、コンパクト・ディスク・プレイヤー............だけどなぜ、そんなものを欲しがるんだ?」といった文字がスクリーンに現れ、イギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」が流れる。本には、そんなことばはなかったんじゃないか、と思ったが、映像とサウンドの組み合わせが妙に気持ちがいい。
・座薬のドラッグの場面は本を読んだときもおもしろかった。しかし、映画ではそこが誇張されて、しかもイーノが使われているのには驚いてしまった。少女との出会いとセックス、ドラッグ・パーティ、AIDSによる友だちの死。仲間と共謀したヤクの密売。それで転がり込んだ大金。それをレントンが持ち逃げする。そこでまた「生活、仕事........................」という文字。手にした金で新しく生活をやり直そうというところで終わりになる。きわめてわかりやすい。
・見終わったときに、やっぱり、映画は映画だなと思った。読みにくかったけど、本の方がもっといろんな世界を描き出そうとしていた。で、本をもう一度読み直すことにした。そうしたら、映画では端折られてしまったシーンやことばは少なくなかったが、映画の方が簡潔でよかったかな、と考えるようになった。何より、コミカルなタッチとサウンドが抜群だった。
・で、柳原君のいう時代感覚だが、青年期に感じる世界の閉塞状況が、時間を経るにつれ、ますますしたたかになっていくということかな、と思ったが、それでは外から見てる研究者の態度だと言われてしまうかもしれない。 (1997.08.03)

『NIXON』

・ ニクソンは、ぼくにとってはもっとも嫌なアメリカ大統領という印象が強かった。J.F.ケネディの敵役だったし、大統領になれたのは、JFKや弟のロバートが暗殺されたおかげだった。大統領になると、北爆やカンボジア侵攻で、ヴェトナム戦争を一層の泥沼状態にしたし、学生運動を強硬に取り締まった。そして最後は、ウォーターゲート事件。要するに、反共主義者で狡猾で汚い政治家だった。ちょうど時期的にも重なった、日本の田中角栄と共通点があったようだ。貧しい家庭に育ち、苦学して政治家になった。で、二人とも続いて中国と国交を回復させた。ただ、田中角栄は庶民派の政治家として、かなりの人気を得ていたから、暗い悪役のイメージのニクソンとは。ずいぶん違うという気もしていた。
・ところが、そんなニクソンに対する印象は、1976年に発行されたE.ゴフマンの"Gender Advertisement"という本を見てすっかり変わってしまった。この本は新聞や雑誌の広告、あるいは記事の中で使われた写真を材料にして、主に男らしさや女らしさを表情やしぐさ、あるいはポーズといった点から分析したものである。ゴフマンがこの本に使った素材は、人が自覚してする行動ではない。ほとんど意図せず、また写真に撮られていることも気にせず写された一コマ。そこに、無意識のうちに現れる、習慣的な行動や、その時々の正直な胸の裡がよく読みとれる。そこから、社会的に身についた性の違いを読み解こうというのがこの本の狙いだった。
・ニクソンはこの本の中で、はにかみ笑いや、ぶすっとした不機嫌な顔、娘の結婚式での照れ笑いなど、ずいぶんおもしろい一面を登場させている。ぼくはこれを見たときに、本当はずいぶん正直な人なのだな、と思った。彼がJ.F.ケネディと大統領選を争った時の敗北の最大の原因はテレビ討論会での印象の悪さだったと言われている。テレビでは、何を話したかではなくて、どう映ったかが強い意味あいをもつ。メッセージではなくてメディアの特質。真善美を兼ね備えたケネディと偽悪醜をさらけ出したニクソン。M.マクルーハンのこんな主張を納得させるのに、これほどいい材料はなかった。しかし、そうであれば、ニクソンの失敗の原因は彼の人格にではなく、印象操作のまずさに求められるはずだが、一般にはそうは理解されなかった。
・この映画に登場するニクソンも、喜怒哀楽を素直に出す人物として描かれている。非常に強くて厳格な母親を聖女として慕い、また忠実な犬になると誓って恐れる。そんな母親のイメージが彼の妻にもダブる。家柄も学歴も格好の良さも比較にならないケネディに嫉妬し、恐れ、逆にそれへの反発心を政治家としてのエネルギーにする。ケネディとは違う現実を見据えた政治家。けれども、世論はそんな彼を最後まで支持しなかった。
・悪者のイメージをまとい、嫌われたままで大統領になった男。ヴェトナム戦争はケネディによってはじめられた。それが泥沼化して誰もがやめろと言いはじめた。しかし、アメリカにとっては敗北による幕引きはできない。映画の中のニクソンは、その名誉ある終結に至るシナリオを考えあぐねて苛立つ。それは、いわば、ケネディの尻拭いである。中国との国交も回復させたニクソンには再選に向けた大統領選挙の見通しは暗くはなかった。民主党の対抗馬は草の根民主主義をかかげ若者の支持を基盤にしたマクガバンだった。決して強力な対抗馬ではない。けれども、ニクソンは選挙に向けて、いろいろ策略をめぐらせた。選挙には大勝したが、その策略がウォーターゲート事件として発覚し、任期途中での辞任に追い込まれることになる。
・権力欲に取り憑かれた正直で、不器用で、小心な男の悲劇。ニクソンが大統領としてした仕事は、今まで思っていたほど悪いことばかりでなかったのでは。この映画を見て、あらためてそんなことを考えた。 (1997.09.15)

『デッド・マン・ウォーキング』

・二人組の男が、男女のカップルを遅い、女の子をレイプした後、二人を撃ち殺す。二人組は捕まるが撃った男には有能な弁護士がついて死刑を免れ、もう一人には死刑が宣告される。この映画は、その死刑囚マシュー(ショーン・ペン)からカトリック修道女のシスターであるヘレン・プレジーン(スーザン・サランドン)に手紙が届くところから始まる。
# マシューには自分のやった行いに対する反省の気持ちが強くある。けれども、もう一人にそそのかされてつきあっただけの自分が死刑で、撃ち殺した張本人が終身刑になったことに対する怒りもある。母親や兄弟が受ける仕打ちも気がかりだ。彼は定期的に面会をはじめたヘレンに、そんな複雑な気持ちを打ち明けはじめる。彼女は刑の軽減を申し出る機会を作ろうと動きまわる。
・マシューは被害者の親たちに謝りたいという。けれども、被害者の親たちは、そんなヘレンの話を聞こうともしない。子どもを殺された親にすれば、子供を失った悲しみや怒り、あるいは悔しさを鎮めるきっかけは、犯人が死刑になることでしか生まれない。「加害者と被害者の両方にいい顔をしようったって、そうはいかない」と追い返されてしまう。
・あるいは、マシューの母親と兄弟たちを訪ねる。母親は、当然そっとして置いてほしいという。ヘレンに動かれたら、また話題になってしまう。しかし、最初は冷淡だった母親も、息子が会いたがっていることを聞くと、子どもたちをつれて面会に行くことを承知するようになる。刑の軽減を審理する場で証言すること決心する。
・犯罪に対するもっとも重い刑が死刑であることにはさまざまな議論がある。僕は、どんな理由であれ、人の命を絶つことを正当化することはできないと考えるから、基本的には死刑には反対だ。殺したヤツは殺されて当然だ、といった発想には与することはできないし、罪を償うやり方はほかにもあるだろうと考えている。
・たとえば、日本では死刑の次に重いのは無期懲役だが、刑の軽減の機会があって、これが20年とか30年で出所できたりしてしまう。だから、そのあいだの落差は甚だしいといわざるをえない。なぜ懲役100年とか、500年とか、あるいは1000年といった判決ができないんだろう。そんなことを以前からよく考えた。これなら、どんな恩赦があっても、二度と社会にはでられない。死の恐怖は確かに恐ろしいものだが、死ぬまで刑に服することには、また違った辛さがあるはずである。
・けれどもまた、そのような態度が、自分が当事者でないからこそできるものかもしれないといった思いも感じている。神戸でおきた事件に数日前に家裁から裁定が下された。加害者の少年に対して精神的な治療を愛情をかけて行うということだった。慎重に出された判断だと思うが、新聞には被害者の父親の「加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないかと思う」というコメントが載せられていた。
・マシューはヘレンや母親、あるいは被害者の親たちの立ち会いのもとで、薬物によって処刑される。その時点では、もちろん彼は犯罪を犯したときとはまったく別の人間に生まれ変わっている。被害者の親の中には、そのことに理解を示す余地を見せはじめ、埋葬にまで参列した人もいたが、しかし、許せない気持ちは、けっしておさまったわけではなかった。加害者の心情と被害者の心情。その両立しがたい思いをどうやって調停するか。この映画はそんな人を裁くことの難しさを垣間みさせてくれた。 (1997.10.20)

『ザ・ファン』

・最近はすっかり、映画をテレビ、それも衛星放送で見る習慣がついてしまった。だから新しい映画は、大体1年遅れで見ることになる。ビデオをレンタルする気にもならないのは不精の極みのような気もする。が、それでも不都合はないのだから、便利になったことを感謝すべきだろう。映画レビューが時期はずれになるのはちょっと気がかりだが、別に最新の映画情報のつもりではないから、さして問題だとも思わない。
・とは言え『ザ・ファン』はずっと気になっていた。テーマである「ファン」に関心があったからだ。で、原作はちょっと前に読んだ。原作と映画の違いはよく議論されるところだが、デ・ニーロを想像しながら読んだせいか、映画を見てほとんど違和感を感じることはなかった。ただ、舞台がシカゴからサンフランシスコに変わり、チームが「ホワイト・ソックス」から「ジャイアンツ」に変わっただけのことである。原作でも、自分勝手の「ファン」の恐ろしさは感じられた。しかし、映画でのデ・ニーロの演技は、それ以上だった。彼は時に演技が過剰になりすぎて、食傷気味になる(最近では『フランケンシュタイン』)が、今回は彼以外にはできない役のように感じられた。
・他球団から超高額の年俸でスラッガーがひいきチームにやってきた。しかもその選手は地元の出身である。主人公のギルは今年こそ、おもしろい試合が見られると期待する。彼は妻とも離婚して、息子ともめったに会うことができない。ナイフの会社のセールスをやっているが、成績が悪く、父が創業者であるにもかかわらず、解雇寸前のところにいる。で、目下の関心は野球だけ。ところが、その期待したレイバーンは極度の不振。つけるべき背番号11をチーム・メートのプリモがゆずらない。原因はそこにあるのかもしれない。しかもそのプリモは絶好調。ギルは背番号の交渉に自分が一役買おうと考える。
・ギルはプリモを殺し、レイバーンの調子は戻る。ギルはレイバーンに感謝してもらいたいと思う。しかし、レイバーンはファンなんて勝手なヤツはクソくらえだという。ギルは許せないと思う。そしてレイバーンの息子を誘拐。映画としてはぞっとするほどおもしろかった。けれども、ファンのイメージがこんなふうにして強調されるのは危ないな、とも思った。・ファンについては、社会学でも、最近よく研究されるようになった。学生の関心も高くて、例えばぼくのゼミでは去年、バレーボールの追っかけ、ロックのグルーピーをテーマに論文を書いた学生がいたし、今年は宝塚ファンをテーマにした論文があった。あるいは小説やマンガや映画とその作者をテーマにする場合も多い。そのすべてに共通しているのは、自分自身がファンだという自覚である。好きな対象、自分自身がそうであるファンについて考えるから、当然批判めいたことが書かれないという不満はあるが、何かのファンになること、ファンであることの積極的な意味を力説するという点ではどれも説得力があった。
・ファンについての社会学的研究も、かつてのような病理現象的な扱いから、ごく普通の人にとってのアイデンティティ形成の一要素、というものに変わってきている。例えば、有名なのはマドンナとそのファンがもつ「ウォナビー」(私もなりたい)という意識だろう。これは、もちろん、自分もスターになりたいといったものではない。むしろマドンナのように男に従うことなく積極的にいきる女になりたいという意識である。
・ファンとはけっして、スターを盲目的に愛し、同一化し、あげくは自分とスターとの違いを見失なってしまうといった存在ばかりではない。自分が自分である、あるいは自分らしい自分を捜す。そのために誰かのファンになる。そんな傾向の方が、現実的には圧倒的に多数派を占めているはずである。『ザ・ファン』は「ストーカー」といった話題とともに、そんな現実を不必要に歪ませる結果をもたらしかねない。この映画に夢中になりながら、一方では、そんなこわさも感じてしまった。 (1998.01.19)

『フル・モンティ』

・ぼくは大学の教員だから、わりと好き勝手なことやっていても、とやかく言われることはあまりない。ほとんど自由業のようなつもりでいるのだが、給料をもらって生計を立てているサラリーマンであることに変わりはない。だとすると、失業の危険だって常につきまとうはずである。最近の証券会社や銀行の倒産はもちろんだが、18歳人口の減少で大学が冬の時代を迎えることはずいぶん前から言われてきた。
・ぼくは能天気にも、こんなことをほとんど他人事のように考えてきた。そして、最近になって急に、否応なしに現実味をもって感じさせられるようになった。大学の生き残りのために考えさせられたり働かされたりすることが増えてきたが、それにもかかわらず受験生は確実に減りつづけている。
・で、ときどき、失業したら、ぼくには一体何ができるんだろう?どこが雇ってくれるんだろうなどと考える。もちろん考えはじめてすぐわかるのは、その可能性の少なさである。ぞっとして、二度と考えたくはないと思ってしまう。間違っても、『フル・モンティ』の登場人物たちのような目には遭いたくはない。この映画を見ての第一印象はそれだった。
・"Full Monty" とは全裸という意味のスラングである。この映画はつまり、男たちがストリップをやる話なのだ。イギリスのシェフィールドはマンチェスターやリバプールに近い鉄鋼の町。登場人物たちはそこの鉄工所に勤めていたのだが、半年前に解雇されてしまっている。金がない、借金はある。時間を持て余す毎日、パートでなら職もないことはないが、今さらそんな仕事をする気にもならない。子供に威厳を示せない父親、そして離婚の危機。当然、パート仕事をする女たちの方が金回りがよくて勢いもある。
・町にやってきた男たちのストリップ・ショーに女たちが嬌声をあげる。男たちはますますいじけるが、主人公のガズはこれで金儲けをと考える。メンバーはインポテンツのデブと気位の高い上司、自殺し損なったマザコンに、巨根だけが自慢のリズム音痴、それに薬中毒の初老の黒人。
・話はしごく単純、それなりに深刻で切実なのだが、思わず笑ってしまう。笑いながら、他人事ではすまされない。火の消えた鉄工所での踊りの練習が見つかって、全員が警察に捕まってしまう。ラジカセで音楽の担当をしていたのはガズの9歳になる息子だった。新聞が鉄鋼野郎のストリップと大きく報じる。新聞の回収にまわったって焼け石に水。彼らは一躍町の話題になる。そして、最初で最後の一回だけの、スッポンポンのストリップ・ショー。これはまさに、中年過ぎの男たちのアイデンティティをかけた戦いの物語なのである。
・最近、イギリス映画がおもしろい。例えば『トレイン・スポッティング』や『イングリッシュ・ペイシャント』。『トレイン・スポッティング』はやっぱり、職がなくてぶらぶらしている男たちの話だった。ロバート・カーライルは両方に出演しているが、登場人物は全体にもう一世代若かった。いわば、アイデンティティを持てない状況に置かれた若者たちの生態といったところ。そして『フル・モンティ』はアイデンティティの再構築を迫られた男たちの生き様である。
・一人前の人間であるためには、誰もが他人から認められ、信頼される何者かにならなければならない。そのための機会や選択の幅は増えたが、競争は激しいし、確立したと思っても、実際、その基盤は恐ろしく頼りない。だからいつだって、やり直す状況に置かれる危険性はある。そんな時代がやってきたことは、たぶん間違いない。『フル・モンティ』はそんな時代に遭遇した男たちのやけっぱちの抵抗なのである。 (1998.02.13)

『アミスタッド』、荒このみ『黒人のアメリカ』(ちくま新書)

・メイフラワー号がプリマスに着いたのは1620年だが、その時にはすでに約20人の黒人がアフリカからアメリカに連れてこられていたそうである。この映画の話は、それから2世紀後の1839年に起こった実際の事件をもとにしている。
・映画の話はおおよそ次のようなものだ。ハバナからアメリカに向かうスペインの奴隷船「アミスタッド号」で反乱が起こる。黒人たちのリーダーはシンケという。彼らは、鎖を外し、船員たちを襲って船を奪う。船の操縦のために残した二人のスペイン人にアフリカに帰るよう命令するが、着いたのはコネチカット州ニューヘブンだった。そこで船や黒人たちの所有権をめぐって裁判が起こされる。
・ 裁判にはスペインとイギリスが関わる。アメリカ人の間では奴隷制をめぐって北部と南部の対立がある。言葉がまったく通じない黒人たちは最初はつんぼ桟敷だが、裁判の行方は彼ら自身による陳述によって大きく様変わりしはじめる。弁護士の若い白人と、元奴隷の新聞発行者の懸命の努力。捕らえられた黒人たちとの心の通いあい。黒人狩り、運搬、売買。その巧妙で残酷で醜悪な実態が裁判の中でシンケによって語られる。クライマックスは、たとえ国が内乱になっても奴隷制は廃止すべきだと唱える元大統領の弁護人の演説
・いつもながらの一大ロマンといってしまえばそれまでの話だろう。愛や自由や人間の尊厳、あるいは良心をあちこちにちりばめた映画作りはアメリカ人のお得意だが、見ていて食傷気味に思えるところも少なくなかった。けれども、やっぱり見ておいて損はない、というよりは知っておかなければいけない話だとは思った。
・アメリカの奴隷の歴史については最近、おもしろい本を読んだ。おもしろいというよりは、「なぜこんな事を今まで知らなかったんだろう」という驚きを感じた。荒このみの『黒人のアメリカ』である。
・アフリカにリベリアという国がある。ぼくは時折ニュースで話題になるタンカーがリベリア船籍である場合が多いという以外に、この国のことをほとんど知らなかった。『黒人のアメリカ』はこの国がアメリカによって強引に作られた国であることを教えてくれる。リベリアは解放された後のアメリカの奴隷を送り返す地として1824年に作られた国である。
・なぜ、解放された黒人たちをアフリカに帰そうとしたか。その理由の第一は、白人たちが黒人との共生を嫌ったからだ。「黒人たちを自由にするのはいいが、一緒に生活するのはかなわん、用がなくなったら送り返してしまえ」というわけだ。それは、奴隷制に反対した北部の進歩的な人びとのマジョリティだった。それに黒人たちの中にも、そのような形で解放後のユートピアを考える者たちがいた。
・けれども、リベリアという国は建国以前には無人の地だったわけではない。買収と侵略。アメリカ帰りの黒人によって追放され、抑えつけられる先住民。イスラエルと似たような話が一世紀も前にあったのである。そして、リベリアの建国はアミスタッド号事件よりも15年前のことである。ちなみにリンカーンによる奴隷宣言は 1863年、憲法によって奴隷制廃止が制定されたのは1865年。『黒人たちのアメリカ』には黒人たちによって残された資料を中心に、他にも興味深い話が多く紹介されている。
・映画論やマンガ論を専門にする立命館大学のジャクリーヌ・ベルントさんと話をしていたら、『アミスタッド』には原作にはある大事な話が語られずに終わっていて、それが、まさにアメリカ映画の限界なのだということだ。反乱のリーダーであるシンケは正真正銘この映画のヒーローだが、彼は、アフリカに帰った後、奴隷商人になったそうである。そこを映画は抹殺した。ぼくは読んでいないが、そうだとすると、この事件の持つ意味は、かなり変わってくる。
・『アミスタッド』はアメリカの歴史の暗い一面を描き出したものだが、同時に、白人と黒人の両方に希望を持たせる描き方をしている。たぶん、だからこそ、人びとが見に行こうと思い、エンターテイメント映画として成立することになるのだと思う。けれども、問題は、その「希望」にこそあるのではないかと考えてしまう。ひとりの人間、あるいは集団や社会の「希望」がもうひとりの人間や一つの社会を抑えつけ滅ぼしてしまうように働く。アメリカの開拓も、そこにアフリカから黒人が連れてこられたのも、そもそもは「希望」という名の傲慢さから始まった。そのジレンマをどう見据えるか。本当に考えなければならないのは、たぶん、その解きがたい問題なのだろう。 (1998.03.25)

『シャイン』

・少年の頃から天才といわれたピアニストがいる。その才能は父親ひとりによって引き出された。その父親が子供にくり返しいうセリフがある。

子供の頃にきれいなヴァイオリンを買った。それを、父親がたたき壊したんだ。そんなものやる必要はないって叱られた。おまえは自由に思う存分ピアノが弾ける。恵まれている。だからがんばって練習するんだ。

・少年は素直に父親の話を聞き、その才能を開花させる。無償で教えようと申し出る者。アメリカへの留学の誘い。著名な女性作家の援助。そしてイギリスへの留学の話。父親は少年がコンクールで優勝することを生きがいにしてきた。ところが、同時に、子供が自分の手の中、世界からはみ出し、抜け出していってしまうことを恐れた。だから、また、父親は少年にくり返し、次のようにも話す。

家族は大事だ。絶対離ればなれになってはいけない。いつも一緒だ。

・ユダヤ人で強制収容所体験のある父にはまた家族の絆の大切さについて疑いのない信念がある。しかし、アメリカ行きはあきらめた少年も、イギリスへの留学は、父の反対を押し切って決行することになる。イギリスでもその才能はひときわ目立ち、ラフマニノフをマスターして演奏会で熱演するところまでいくが、そこで発狂する。
・このピアニストが陥った状況はG・ベイトソンがいう「ダブル・バインド」に他ならない。人は互いに矛盾し合う二つの命令を受け、しかもどちらにも背けない状況に追い込まれると、どうにも動きが取れなくなる。子供の時代に親との関係の中にそれを持ち込まれた子供には、正常と呼ばれる精神状態に成長することがきわめて困難になってしまう。
・ ピアニストはオーストラリアに戻るが、ピアノは一切弾かなくなる。あらぬ事を口走る放浪者。それがいくつかのきっかけから、街の酒場でピアノを弾きはじめる。支えとなる女性の存在。彼のピアノは評判になり、かつての天才少年の復活として話題になる。そして母や姉妹も聴く大ホールでのコンサート。しかし、父親はすでに死んでいる。
・『シャイン』は、そんな親子の関係と、それを克服していく主人公を丁寧に描き出している。父親がなぜ、息子の才能の芽を摘み取ってまで、家庭を守りつづけようとするのか、といったことについて、その理由が、今一つ説得的に描き出されていない気がするが、なかなかの秀作だと思った。主演のジェフリー・ラッシュはこの役でアカデミーの主演男優賞を取った。どこやらウッディ・アレンに似た風貌と雰囲気が、なかなかいい。(1998.04.22)

『萌の朱雀』

・不思議な映画だ。というか見はじめてすぐに違和感を感じてしまった。第一に「せりふ」が極端に少ないし、そのことばがひどく聞き取りにくい。アマチュアの作る映画によくありがちな特徴だが、それを手法として意図的につかっている。手法といえば、どことなく小津安二郎の映画に似た感じもした。
・この映画の分かりにくさは、たとえば家族構成にある。両親と二人の子ども、それに祖母という家族だが、上の男の子と妹との歳が離れすぎているし、逆に母親と男の子の歳が近すぎる。けれども、そのことについての説明はせりふからはわからない。この映画にはナレーションもないのだ。15分ほどたったところで、やっと父親が「かあちゃんに会いたいか。遠慮するなよ」という場面がある。離婚して子どもを父親が引き取ったのか、と僕は思った。
・映画はその後10年ほど後の世界になる。兄と妹は最初から仲がよく描かれているが、10年後の世界では、そこにひそかな恋愛感情が生まれていることが暗示される。そしてすでに働きに出はじめた男の子には母親に異性としてひかれる思いも存在する。奈良の山奥にある狭い閉塞した世界の中の近親的な恋愛感情か、と思ったが、男の子が父親の姉さんの子どもであることが、祖母のせりふのなかにちらっと伺えた。そして物語はあまりに唐突な父親の死、と母と娘の里帰りによる家族離散によって幕を閉じる。
・正直なところ、何を描きたいのかわからない映画だと感じた。いったい何がテーマなのだろうか。確かに山奥の風景はきれいだし、素朴な人たちの様子はよく描かれている。けれども、それだけならば、とても映画として高い評価をすることはできない。「なんだ、これ」というのが見終わって感じた僕の印象だった。しかし、この映画は去年のカンヌ映画祭で賞をとっている。どうしてか、と考えはじめたら、すぐに小津のことが頭に浮かんだ。
・誰だったか忘れたがフランス人による小津論を読んだことがある。そこには川岸に並んで座る恋人同士を描いたシーンについての分析があった。二人は何もしゃべらず、見つめあうこともなく、ただ川面を眺めている。けれども、同じものを見つめることによって二人の思いはしっかり共有されている。抱きあったりことばで確認しあったりしなくとも心が一つになる関係。確かそんな分析だったと思う。
・ことばで言わなくてもわかる。というよりはことばに出さない方がよりわかる。それは日本人のコミュニケーションに典型的な伝統だが、この映画はそれを描きたかったのかもしれない。だとすれば、この映画のテーマはわかりすぎるぐらいよくわかる。けれども、それならば、むしろそんな伝統が現在の日本人の中からは消え去ってしまっていること、消え去っているのに、いまだにそれが通用しているかのような錯覚に陥りがちであること。そんな人間関係のちぐはぐさを語るべきなのではないだろうか。たとえ吉野の山奥でさえ例外ではないというふうに.......。
・しかし欧米の人たちには、そんな日本人の変容はわからない。彼らにとって相変わらず日本は東洋の神秘な国のままなのだ。カンヌでのこの映画の評価は、結局、そのことを明らかにしただけなのかもしれない。そんな気がした。と考えたら、『HABNABI』はどうして受けたのかが気になりはじめた。来月ぜひ「祇園会館」で見ようと思う。 (1998.05.27)

『HANA-BI』

・ たけしの映画には暴力がつきものというけれど、一つだけほとんど暴力とは無関係な映画がある。『あの夏、いちばん静かな海』。聾唖の若いカップルの物語。湘南の海岸とサーフィン。テレビでメチャメチャやってるたけしが、こんな静かな映画を作るのかとびっくりしながら見た。
・『HANA-BI』には暴力と静寂さの両方がある。主人公の刑事(元)は映画の中ではほとんどしゃべらない。黙っていて、抑えきれなくなると、いきなりパンチをとばす。血飛沫が上がって、見ているだけでも痛さが伝わってくるような描き方をする。後輩の刑事のあっけない死。撃たれて下半身が動かなくなった刑事は家庭崩壊。生きる支えにとたけしは絵を描くことを勧める。その元刑事が描く絵が、映画の中では重要な役割を演ずるが、実際に描いたのはたけしである
・主人公の妻は岸本加世子が演じているが、彼女もほとんどしゃべらない。彼女もまた子どもを失って傷ついている。それに治る見込みのない病気にもかかっているようだ。彼女がセリフらしいことばを発するのは最後だけ、たけしに向かって「ありがとう」というところだけだ。静かさとこらえていて時折暴発する怒り。見た第一印象はそんなものだった。
・ビート・たけしのテレビ番組をぼくはあまり好きではない。ほとんどアドリブの悪ふざけ、悪態、毒舌。小気味よく感じることもあるが、ちょっと長く見ているとうんざりしてしまう。超売れっ子の彼がまめに映画を作りつづけている。そんなにヒットするわけではないから、テレビで稼いだ金を映画に貢いでしまっているのかもしれない。そんな彼を見ていると、息苦しくなるほど生き急いでいるように思えてしょうがない。そんな風に考えると、彼のテレビでの言動にはまた違った意味あいを見つけたくなってくる。彼は映画とテレビの両方で、いったい何を表現しようとしているのだろうか。
・子どもたちが突然切れて、とんでもない暴力を振るう事件が続発している。断定できるものではないが、ぼくは小さい頃から暴力はいけないと教えられて内面化した抑圧が問題なのではないかと考えている。暴力というよりは「怒り」をコントロールすべを知らないのだ。あるいは、日頃つきあう大学生たちが「友だちがほしい」といいつつ、仲良くなるきっかけをつかめないでいたり、互いに意見を言い合ったり批判をしたりすることに極端に慎重であることも気になっている。触れあうことやぶつかりあうことができないのだ。そして大人達はといえば、相変わらず、暗黙の了解が通じる社会に安住したがっている。実際には、そんな関係はすでに
・ビート・たけしの主張は、こんな社会の現状や、そこで何の声も上げようとしない人びとへの恫喝、あるいは暴露なのかもしれない。そのために彼はエネルギーと時間を極限まで使って、自らをさらけだそうとしている。『HANA-BI』を見てしばらくしてから、そんなことをふと考えてしまった。(1998.06.24)

"A Family Thing"

・アメリカを人種の坩堝の国だというのは正しくはない。サラダ・ボールなどという形容もきれいごとにすぎる。確かに、ニューヨークやロスの街を歩く人の肌の色は多様だ。映画やテレビ番組でも、あるいはバスケットボールやベース・ボールの試合でも、さまざまな人種の混在する様子をよく目にするようになった。ロックといえば白人の音楽だという常識も、とっくに通用しなくなっている。しかし、それは日常生活や人々の意識の中で、肌の色が、同時に生きる世界の違いではなくなったことを意味するものではない。
・ "A Family Thing"は南部に住む初老の白人の男が、母の遺言として、実の母が黒人であったと知らされるところから始まる。父親の浮気でできた子供であること、その黒人の母は、出産直後に死んでいること、そして異父兄弟の兄がいて、シカゴで警官をしていることなどが告げられる。もちろん、主人公の男には、黒人の血を受け継いでいることを示す特徴は、外見的には何もないから、彼にとっては母の告白は信じられないことである。
・男は黒人の兄を探しにシカゴに出かける。兄は白人の弟の存在を知っていたが、もう二度と会いたくはないと冷たく応対する。弟とはいえ、父は浮気相手の白人で、そのために母親は死んだのである。けれでも結局、ちんぴらに絡まれてけがをし、トラックを盗まれた弟を、自分の家に同居させる。家には母の姉である叔母と別居中の息子が住んでいる。地下鉄の線路に面した狭い住居。そこで奇妙な同居生活が始まる。
・ 自分の生い立ちを調べ、そこで分かった事実をもとに、アイデンティティを確立し直す。あるいは、今まで異質で無縁だと考えていた人々との関係を親密なものとして再確認する。そのような作業の前に立ちはだかる垣根を乗り越えることは決して容易ではない。何しろ主人公は、アメリカの南部で生きてきた白人で、しかももう60歳になろうとしているのだ。けれども、そこを解決しなければ、この先、生きていく道筋やはもちろん、自分自身のことがわからない。
・この映画を見ながら、正直言って、こんな映画をアメリカ人でも作るのだな、と妙な関心をしてしまった。華やかなもの、派手なもの、楽しいものは何もない、きわめて地味な映画。しかし、そのテーマは限りなく重い。この映画で扱われるような事例が一つ一つ積み重なってゆけば、たぶん、アメリカは人種問題は解決の方向にゆっくりと進むだろう。そんな印象を持たされた映画だった。
・白人の弟がアーカンソーに帰る日、黒人の兄は見送りに出て、そのままトラックに乗って故郷に帰り、母の墓を弟と探すことになる。幼い頃の話をしながら、二人が、草に埋もれた母の墓を探す。最近では滅多にないことだが、ぼくは目頭が熱くなってしまった。 (1998.07.22)

『八日目』『女と男の危機』

・映画館で公開されるのはアメリカ映画ばかりだから、ついついフランス映画のことなど忘れてしまいがちだが、衛星放送をこまめにチェックすれば、最近のものを結構見ることができる。で、わりとおもしろい。
・『八日目』は1996年の作品で監督はジャコ・ヴァン・ドルマル。聞いたことない人だが、それは出演者についても同じだ。話は妻子が出ていってひとりぽっちになった男と、施設をぬけだしたダウン症の青年の出会いからはじまる。男は最初、母に会いたい青年をしぶしぶ車で送り届けようとする。母親はすでに死んでいることがわかると、男は頭にきて青年を置き去りにしようとするが、気になって引き返してしまう。そうすると、激しい雨の中で青年が立ちつくしたままでいる。「戻ってくると思った」と言う青年の笑い顔に男は心を開かれる。
・別居の原因は男の身勝手さにある。だから、妻と子どもが住む家をたずねても、妻はもちろん、子どもとて喜びはしない。せっかくここまできたのにと思うと怒りが爆発してしまうが、それこそ、男の身勝手というものである。彼は、ダウン症の青年の純真無垢さ、人を信じる心にふれながら、しだいに妻や子どもたちが去った理由に気づくようになる。で、子どもの誕生日のプレゼントに花火をたくさん買い込んで、家の前で一斉に点火させる。危うく火事になりかけるが、それで、妻や子どもの心を向けさせることに成功する。
・『女と男の危機』もテーマや設定がよく似ていた。1992年の作品で、監督はコリーヌ・セロー、出演はバンサン・ランドン。こちらもぼくには知らない人ばかりだった。
・弁護士の主人公が朝目を覚ますと妻がいない。子どもたちがバカンスに行く日なのにである。義母に任せて出勤すると、解雇通知が机の上に置いてある。上司に悪態をつき、相談に乗ってもらおうと友人を訪ね回るが、誰も彼も自分の抱える問題で手一杯で、話すら聞いてくれない。男はその冷たさを非難する。ここらあたりの会話のすさまじさは、映画を見続ける気さえなくさせるほどで、フランス人てこんなに激しかったのかとあらためて思ってしまう。
・酒場で隣り合わせた男がビールをおごってくれと言う。文無しの風来坊。見るからに風采が上がらないが、それに輪をかけて頭も悪そうだ。しかし、主人公が自分の話をぶつけることができたのは、彼が最初だった。ちょっと落ち着いた気分になって酒場を出ようとすると、その風来坊もついてくる。
・実家にかえって親に相談しようとすると、母が10歳も若い男と不倫をして家族会議の最中で、自分の話などは持ち出せない状況だった。母親は夫のため、子どものためばかりに生きてきて、自分を取り戻したくなったのだと言う。そのことばに、男は妻の家出の理由を見つけた気がした。
・登場人物の誰もが高慢ちきなエゴイスとばかり。ただ一人風来坊だけがちがう。その社会から取り残された人間だけがかろうじて人間性を失わないでいる。自分の生活が破綻しなければ、見向きもしない人間に救われていく。二本の映画に共通したテーマは、けっしてフランスだけの特殊な状況ではない気がした。
・誰もが生き残りをかけたサバイバル・ゲームのなかにいる。関わる人は誰であってもまず、自分にとって役に立つとか、ためになるとかいう、エゴイスティックな理由で選ばれる。友人、結婚相手、そして子どもや親とて例外ではない。仕事だって、いったい何をやっているのかあらためて考えたら、モラルも社会的意味もなくなっていることに気づくばかりだ。で、誰もが、そのことに気づかないふりをして、誰より自分自身をごまかしている。そのためのさまざまな破綻。実際今怖いのは経済不況よりはこっちの方だと、映画を見ながらつくづく考えさせられた。(1998.11.18)

『地球は女で回ってる』

・ウッディ・アレンの映画は監督・主演で、彼自身の素顔を覗かせる手法がほとんどだが、最近の彼の映画ではますます、そこが強調されるようになった。ぼくは彼の映画のなかでは『アーニー・ホール』が一番気に入っているし、共演している女優も、ダイアン・キートンが好きだ。だから、ミア・ファーローが出るようになってからの映画は必ずしも熱心に見たわけではなかった。けれども、彼女との離婚騒ぎあたりからの映画はまたおもしろく見ている。
・あの歳で、あの貧弱な体で、なぜあんなに女好きでセックスにこだわるのか。ぼくはいつでもあきれながら見ているが、いっこうに収まらない欲望に振り回されてうろたえ、どもってしまう彼の姿は何とも滑稽で、また悲しい。それに「いい女を見たらいまだに裸を想像してしまう」などといい、「大統領だって、これほどではない」などとつぶやくようにちゃかしてしまうウィットがいい。彼の映画を見ていると、逆に、まだ若いくせに枯れてしまったようにふるまったり、実際そう思いこみはじめている自分の方がだらしなく思えてくるから不思議だ。
・『地球は女で回っている』ではウッディ・アレンは作家で登場する。自分の女遍歴はもちろん、親や兄弟の私生活を題材にして、すべてをさらけだしてしまう小説を書いている。だから、別れた妻たちや不倫相手が、「あの小説のあの登場人物のあの場面のあのせりふはひどいじゃないの」といって主人公を問いつめる。小説は現実そのもののようでもあり、またフィクションでもあるのだが、実際のところそれは、主人公にも見分けがつかないほどにこんがらがってしまっている。
・夫や父親としてはまるでだめだが、作家としては評価されている。放校になった大学から表彰されることになって授賞式に出かける。うれしくはないが、社会的な役割は果たさなければならないし、名声にも箔がつく。しかし、行く気にはならないから、一緒にいってくれる人を探す。で、たまたま出会った売春婦と、友人、それに今は一緒には住んでいない小学生の息子を通学途中に無理矢理誘拐してつれていくことにする。ところが、大学に着く直前で友人は心臓麻痺で死んでしまう。授賞式と葬式、それに警察が彼を誘拐犯で逮捕。ストーリーと言えるものはそれだけなのだが、途中に彼が書いた小説の登場人物たちが現れて、彼の過去を再現する。その展開のさせ方は、いつもながらおもしろい。
・ウッディ・アレンの現在の恋人は、ミア・ファーローの養女だったスン・イー・プレヴィン。父と娘が男と女の関係になる。裁判沙汰になって大きなスキャンダルとして話題になったが、彼はそんなことまで、映画作りの肥やしにしてしまう。欲望と嫉妬のどろどろした世界は一歩間違えばグロテスク劇だが、それが彼の手にかかると、ニューヨークの風景とジャズ、それに、知的な会話によって、洗練されたコミカルな世界に変身してしまう。ぼくはつくづくアメリカの大統領や日本の民主党の代表より、映画監督の方が得だと思ってしまったが、しかしやっぱり、自分をここまで素材にして表現活動をすることはできそうもない。
・ところで、ウッディ・アレンの映画は、もう一つ『ワイルドマン・ブルース』も公開中である。それに人気のアニメ『アンツ』の主人公の声もやっている。ポール・オースターの『ルル・オン・ザ・ブリッジ』や『ベルベット・ゴールドマイン』もロードショー中だ。とても全部を見に行く時間はないから、どれにしようか迷ってしまう今日この頃である。 (1998.12.25)

"The People VS. Larry Flynt" "The Rainmaker" "Wag the Dog"

・久しぶりに続けて映画を見た。といっても劇場ではなくWowow である。おもしろい映画がなかったわけではないのだろうが、毎週の時間のサイクルが変わって、見る気にならなかった。新幹線での往復が10回を越えてバテバテだが、ゴールが見えかかってきて余裕ができたのかもしれない。で、アメリカのメディアをテーマにした2本。
・『ラリー・フリント』はストリップ酒場の経営者だったラリーが客寄せのつもりでヌード雑誌を作るところからはじまる。やがて雑誌が本業となり、ジャクリーヌ・オナシスを隠し撮りした全裸写真で一躍全国誌に躍進。男の雑誌『ハスラー』の誕生である。
# 「性」を売り物にした男性雑誌は『プレイ・ボーイ』が最初で、人物としてもヒュー・ヘフナーの方が有名だが、この映画を見る限りでは、ラリー・フリントの方がはるかに興味深い人物だと思った。『プレイ・ボーイ』よりも刺激的な誌面づくりをする『ハスラー』には、当然、良識派の非難が集中する。映画はそれにむしろ挑発的な言動や誌面で対抗するラリーを中心に話を進める。性表現の自由対倫理、あるいは対プライバシーの尊重。鉄砲で撃たれて下半身不随になっても裁判闘争をやめない主人公は、ちょっと格好よすぎる気がしたし、アメリカ映画の裁判シーン好きにも食傷気味だが、論点が明快で痛快な映画だった。オリバー・ストーンのプロデュース。
・そういえば、マジックで要所を塗りつぶした『ハスラー』を買って、バターでインクを落とそうとしたのはいつだったか。あるいは、アメリカの飛行場について、何よりもまず買った『ハスラー』に夢中になったのは..........。日本でのヘア解禁やインターネットでのアダルト・サイトの乱立といった現状から見ると、そんなに昔のことではないのに、なんだかほのぼのとした時代に思えてしまった。
・法廷ドラマは食傷気味といいながら見てしまったのが『レインメーカー』。『グッドウィル・ハンティング』で写真を撮るようにすべてを記憶する少年を演じたM・デイモンが新米の弁護士になって保険会社の悪行を追求するという話。今時珍しい、理想に燃えた青年ルーディの正義感あふれる活躍で、下手をすると嘘っぽく感じられてしまうものだが、コッポラの演出はきわめてクールで、引き込まれてしまった。
・低所得者を狙った保険ははじめから支払う意思がないという悪質なもの。で白血病の青年は骨髄移植が受けられずに死亡。大物弁護士団を相手に司法試験に受かったばかりの主人公の悪戦苦闘。力や金がなくても、経験がなくても、熱意と努力で現実に立ちはだかる壁は突き崩せる。それが、絵空事のように感じられないのは、映画の出来以外に、アメリカにおける裁判が果たす役割の大きさに原因があるのかもしれない。
・日本でも銀行や証券会社、あるいは保険会社のイメージはひどいもので、ありそうな話だと思ったが、その糾弾という行動にはあまり力強さは感じられない。ぼくは昔から、マネー・ゲームや財産管理の勧誘にはいっさい聞く耳を持たないという態度をとってきたから、バブル景気にも、その破綻にも無縁だったが、金融機関には嫌悪感さえ持っている。日本にはルーディが出現する可能性はないのだろうか。
・もう一つ『ワグ・ザ・ドッグ』は、これもアメリカ映画によくある大統領もので、出演はロバート・デ・ニーロとダスティン・ホフマン。再選を目指す大統領が少女をレイプするが、アルバニアで戦争をでっち上げてそのニュースをもみ消して当選という話。タッチはコミカルだし、演技達者揃いだし、話も荒唐無稽な気もするのだが、湾岸戦争から最近のコソボ紛争までの一連の出来事や、クリントンの下半身にまつわる話など、現実が現実だけに、ストーリーには奇妙なリアリティが感じられた。
・ニュースが作られるのは当たり前だが、事件そのものも作られる。ありもしないことをでっち上げ、あったことをもみ消す。もちろん、今は、そんなことに人びとが無垢であるような時代ではない。むしろカラクリがすべて種明かしされていながら、なおかつ、そのような「疑似イベント」が好んで消費される。であるなら、「サッチー」や「ヒロスエ」ではなく、もっともっと大きくて悪質な存在を取り上げたらと思うのだが、日本のメディアには弱いものいじめしかできないようである。 (1999.06.29)

「恋愛小説家」"As good as it gets"

・とにかく今年は映画を見る機会がない、というよりは余裕がない。だから、テレビは結構見ているのに、Wowowで見るものをあらかじめチェックしてといったこともしなくなった。で、思い出したように番組欄を調べたら、見たいものがいくつかあった。「恋愛小説家」はその一つである。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハント主演で監督は「愛と追憶の日々」のジェームズ・L.ブルックス。この映画は「タイタニック」がアカデミー賞を総なめにした年に、主演の男優と女優賞を横取りにして、デカプリオ人気に肩すかしを食らわした。日本では「タイタニック」に隠れてほとんど話題にならなかっただけに、よけいに見たいと思っていた映画の一つだった。
・ニコルソンが演じる小説家のメルヴィンは極端な潔癖性で動物嫌い、そしてなにより人間不信の毒舌家である。住んでいるのはマンハッタンの高級アパート。隣人とは口をきくのも嫌で、食事をするのは決まったレストランの決まったテーブルで、しかも注文を取るのも決まったウェイトレス。もちろん食べるものも決まっていつも同じもの。しかしそのウェイトレスに対しても、積極的にかかわろうとするわけではない。彼にとっては、かろうじて接触を許容できる相手というにすぎない。作家である主人公が人との関わりに積極的になるのはワープロに向かって恋愛小説を書くときだけである。
・そんなメルヴィンが否応なしに隣人のゲイの画家と関わらざるを得なくなり、嫌いな犬とを世話するはめになる。ウェイトレスが店を休むと家まで行って、君がいないと食事ができないと懇願するようになる。けれども彼女にとって彼は決して印象のいい相手ではない。と言うよりは口が悪くて偏屈な嫌な客にすぎないから、家まで来たりしたことをひどい言葉でののしる。彼女には病気がちの男の子がいた。
・フィクションの中では男女の恋物語を自由自在に操ることができるが、現実になると、相手をむかっとさせたり、うんざりさせたり、傷つけたりすることばしか吐けない。読者として女性ファンを虜にすることはできても、現実の、目の前にいる女性にはまるでだめ。すでに60歳を過ぎているはずの、男や女の心理を知り尽くしているはずの男が見せる、まるで初恋を経験する純情な少年のような一面。そのニコルソンの演技は、笑わずにはいられないがまた、何とも切なくなってくる。
・都会では、何か一つ才能があれば、あるいは仕事さえあれば、人とはつきあわなくたって生きていける。生身の人間は思うようにはならないし、信用もできないが、それに代わるフィクションや疑似現実的な世界でなら、親しさも、恋愛感情も経験することができる。そんな意識は若い世代にはごく自然なものとして現れているが、中年以上の世代だって例外ではない。そしてやっぱりどこかに欠落感や孤独感を抱えている。
・メルヴィンはゲイの画家の犬をしぶしぶ預かってはじめて、その犬を返した後にあいた心の穴に気づく。あるいはいつも行く店にいつものウェイトレスがいないことであらためて、自分の居場所が消えてることを思い知らされる。
・その欠落感や孤独感は、現在の人間が持つ共有意識で、少なくともある程度都市化したところなら、住んでる場所を問わないもの。この映画を見ながら思ったのは何よりそんなことだった。ある日突然、安住の場であるはずの職場や家庭が消えてなくなったら、僕らは、その欠落感や孤独感をどうやって埋めていくのだろうか? (1999.11.16)

「御法度」

・映画館で映画を見たのはちょうど1年ぶり。見たい映画がなかったわけではないが、時間がなかったし、あってもその気にならなかった。本当に久しぶりだが、特に『御法度』が見たいわけでもなかった。何のことはない。友人から優待券をもらったのである。冬休みだし、使わなければもったいない。で、最近できたジャスコに行くことにした。ここには、映画館が10館近くもある。国道1号線に面してはいるが、淀競馬場近くで田圃以外は何もなかったところだ。一度出かけてみたいと思っていた。駐車場や建物が平面で広がる巨大なショッピング・モール。まるでアメリカである。そこで、本当に久しぶりに、チャンバラ映画を見た。
・『御法度』は新撰組の話である。松田優作の息子が演じる美少年が組に入ってくると、男たちは、何となく変な気持ちに囚われはじめる。誰もが「そっちの気は拙者にはない」と口にするほど気がかりな存在になる。最初に関係を持ったのは、一緒に入隊した若い浪人(浅野忠信)。次に別の男が言い寄るが、関係した後に惨殺される。隊の乱れを案じた土方(ビートたけし)が、少年に女の味を教えてやれと部下(トミーズ雅)に命ずる。そこで島原へ行こうとしつこく勧めるが、少年は取り合わない。やっとその気にさせてつれて行ったのに、太夫(神田うの)に指一つ触れずに帰ってくる。ところが誘った侍が襲われて、危うく斬られそうになる。犯人は最初に関係を持った男。そう判断した近藤勇(崔洋一)は美少年自身に制裁を命ずる。土方は少年の気持ちをくんで「むごい」とつぶやく。しかし、少年は顔色も変えず承諾する。
・美少年は京都でも有名な越後屋の息子である。なぜ新撰組に入ったのか、その理由はわからない。しかし、彼の周囲で次々人が斬られ、やがて、そのほとんどが少年によるものであることがわかってくる。男を虜にしておいて惨殺する。その恐ろしさに早くから気づくのは、やはり美少年の剣士だった沖田(武田真治)である。
・はっきり言ってそれほどおもしろいと思わなかった。病気から立ち直った大島渚がどんな映画を作ったのか、ちょっと関心があったが、拍子抜けという感じだった。彼はこの映画で何が言いたかったのだろうか。何を表現したかったのだろうか。
・ただキャスティングはおもしろかった。崔もたけしも監督である。二人とも大島が休んでいる間に、日本を代表する映画監督になった。黒沢監督が「影武者」を撮ったときにコッポラやルーカスやスピルバーグが集まって支援した。そんな関係を連想した。
・もう一つ、新撰組の衣装。今までのものとは全然違っていて格好いい。阪本龍一の音楽はほとんど印象に残らなかったが、サウンドは地響きがするような効果を使って新鮮だった。剣道の稽古場では、見守る土方を映しながら、木刀の音が背中から聞こえてきた。カラーでありながら、モノクロのようなトーン。それに、無声映画の頃に使われた字幕の手法。映画としての斬新さは十分に感じられた。その意味ではおもしろかったと言える。 (2000.01.04)

「女と女と井戸の中」「遙かなる大地へ」「レディ・バード、レディ・バード」

・例年だと、定期試験に続いて入試の監督と緊張と退屈が入り交じったつらい時間を過ごしていたのだが、今年は入試業務からは解放された。というか、秋と暮れに面接を担当したことで勤めは果たしたとされた。大学のやり方の違いだが、去年まで勤めていた大学では、原則としてすべての入試に全員が参加という決まりだった。それが東経大では分担でおこなわれている。どう考えたって、これの方が合理的だ。できれば、教授会ももっと簡素化して欲しいと思うのだが、どういうわけか、この点に関しては無意味な手続きや儀式が多すぎる。一長一短、なかなかうまくいかないものである。
・それはともかく、残り少なくなった京都での生活をゆっくり過ごすことができた。で、カウチポテトで映画三昧。Wowow、BS2、ハイビジョンと、探していくと次々とおもしろそうな映画をやっている。
・まず『女と女と井戸の中』(The Well)。オーストラリアの農場に父親と住む中年女性が若い女の子を家に住まわせる。音楽や踊り、あるいは衣装。単調な生活が一変する。不機嫌だった父親が死ぬと、小さな小屋を残して農場を売却してしまう。大金が転がり込んで、二人はヨーロッパ旅行に想いをはせる。ハネムーンのようなひとときだが、泥棒が入って金がなくなる。ところが偶然、その泥棒を車でひき殺してしまう。死体を井戸に。金はない。人は殺した。落ち込む中年女性。金をもって家から出る娘でラスト・シーン。行ったことはないがオーストラリアの一風景を見た気がした。
・『沈黙のジェラシー』(HUSH)は息子を溺愛する姑のジェシカ・ラングが嫁のグウィネス・パルトロウをいびりだそうとする話。お腹にいる孫を自分のものにしようと画策するさまは鬼婆のようですごかった。しかし、母親とのつながりよりは妻を選んだ男の心理描写はいかにも単純で、ジェシカの恐ろしい演技だけが目立った映画だった。
・ ハリウッド映画はお金がかかっていて映像は迫力があるが、相変わらず何でも「愛」で片づけてしまう。そんな映画が『シティ・オブ・エンジェル』と『遙かなる大地へ』。前者はV.ヴェンダースの『ベルリン天使の歌』の焼き直しで、ニコラス・ケイジとメグ・ライアン。公開時にいろいろ批判されたが、オリジナルに比べてずいぶん薄っぺらだなと思った。天使が女医に恋して人間になるが、女医がトラックに轢かれて死んでしまう。残されたケイジは人間としての喜びや悲しみ、痛み、それに何より愛を知った喜びの尊さを訴えて終わる。しかし、アホみたいと感じてしまうしかない話のように思った。
・『遙かなる大地へ』はアイルランドからアメリカに移住した若者がオクラホマに自分の土地を見つける話である。出演はトム・クルーズとニコール・キッドマン。美男美女で実際の夫婦。これもやっぱり愛のドラマだった。アメリカへの移住と夢を求めた西部や西海岸への移動は、実際にはとんでもない苦難の道で、僕はそのことを『オレゴンへの道』で知った。大陸を移動するためには当然、食料や水などの確保に多額の金がいる。病気や事故、喧嘩、あるいは賊に襲われるといったこともある。僕は主演の二人よりは、簡単に死んでいくちょい役の人たちの人生の方が気になった。
・『レディ・バード、レディ・バード』はイギリス映画で次々と生んだ子どもを福祉施設に取られてしまう女の話。彼女は父親に性的虐待を受けたという幼児体験を持つ。父親の違う4人の子どもをもうけたが、男の暴力とみずからの母親としての能力をなさを理由に子どもを取り上げられてしまう。その後パラグアイから亡命してきた男と知り合い、子どもを生むが、それもまた取られてしまう。それによってますます荒れる女。映画は、親子の愛を奪う社会の制度を疑うが、しかし、子どもにとっては、実母か里親か、どちらが幸せになるかはわからない。愛こそはすべてといったハリウッド映画とは違って、愛ゆえに泥沼におちていくプロセスがよく描かれていると思った。
・月並みだが、やっぱり地味な映画の方がいろいろ考えさせられる。見ていてしんどくなるが、しかし、親子の問題が原因の殺伐とした事件が多発する最近の風潮と重ね合わせると、愛を謳歌して納得などという話にはつきあえない気がしてきてしまう。
・地味な映画といえば、親子の愛をテーマにしたものをもう一つ。『推手』はコンピュータの専門家になった中国系アメリカ人が白人の女性と家庭を作り、父親を台湾から呼ぶという話である。父親のアメリカに対する、そして奥さんの中国に対するカルチャー・ショック。家族を大事にする中国的な伝統と、個人主義のアメリカ。そのズレをめぐって食い違いや諍いがおこる。互いが努力して、そのためによけいに溝を広げてしまう。そんな関係の描写が見事だった。
・1年のうちでこんなふうにして映画をつづけて見るのは何度もない。のんびりしたが、寝転がってばかりいたせいか、またぎっくり腰になってしまった。やれやれ........。 (2000.02.23)

『うなぎ』『菊次郎の夏』

・『うなぎ』は97年度のカンヌ映画祭で最高のパルム・ドール賞を取った。そして、『菊次郎の夏』は99年度のカンヌ映画祭に出品。賞はとれなかったが評判は極めてよかった。見たいと思いながら、見逃してしまった作品だから、Wowowで続けて上映という予定を知って楽しみにしていた。しかし、どちらも今ひとつでがっかりした。
・まず『うなぎ』は何が言いたいのかよくわからないというのが第一印象。妻の浮気現場を見て逆上した男が妻を斬り殺して服役する。仮釈放で出てきたときには理髪の技術を身につけていて、床屋さんを開業してうなぎを飼い始める。そこで自殺未遂の女を助けると、彼女はここで働かせてほしいと懇願する。しかし男は断る。理由は女性不信なのか、逆上して人を殺した自分への反省なのか、あるいは、妻の不満に気づかなかった自分への悔いなのか。いずれにしても、女性にはもう近づきたくないという姿勢。このあたりの描写が何とも曖昧である。というか、男の内面が見えてこない。
・結局女は床屋で働きはじめ、何かと男の世話をしたがるようになる。妻を殺して服役したことの告白。しかし女は驚かない。逆に女が持ち込むごたごたに男は首を突っ込まざるを得なくなる。そのどたばたの果てに男は女に心を開く。女は妊娠していて、その子が産まれたら一緒に育てようと言う。しかし、その心の動きはほとんどわからない。
・おもしろくないわけではないが、柱が一本通っていない。シリアスでもコミカルでもない中途半端。なぜ「うなぎ」なのか。うなぎはこの映画の何を象徴しているのか。そう考えると、この映画は何とも難解なものになる。
・『菊次郎の夏』は母を捜して旅に出る子どもが主人公のロード・ムービーである。菊次郎は付添人だが、旅費にもらったお金を競輪ですってしまう。そこから東京から豊橋までの珍道中がはじまる。アドリブのギャグの連続で、事前にシナリオがなかったのではと思ってしまった。撮影を始めながら、その場その場の思いつきでシーンを作っていく。ロード・ムービーにはよくあって、それが効果的な働きをする。タケシもサービス精神旺盛で次々ギャグを用意したが、テレビで何度も見たように感じて、おもしろさを素直に受け取ることが出来なかった。第一、子どもが主役で、母を訪ねて何マイルといった設定は、お涙ちょうだいの定番である。案の定、見つけた母は再婚していて、別の子どもがいた。菊次郎はそれを不憫に感じて、子どもを元気づけようとテレビでお馴染みの「馬鹿」をやるのである。東京から豊橋までは新幹線なら2時間ほど。車でだって4〜5時間。そこに何でこんな旅が必要なのか。やっぱり納得のいく設定が必要だろう。
・最初に書いたが『うなぎ』はカンヌで賞を取り、『菊次郎』も好評だった。この2本の映画を見ながら何より考えてしまったのは、その理由のわからなさだった。実力をすでに評価された監督の映画という先入観があったのかもしれない。あるいは、ヨーロッパの人たちには新鮮に感じられるところがあったのかもしれない。けれども、この2本とも、日本での評価もかなりよかったはずである。いったいどこがどうよかったのだろうか。
・Wowowは今月「日本が観たい!スペシャル」と「日本映画新世紀」という特集を組んで、最近の日本映画を放送した。外国で評判になった作品が多いようだ。その評には「今までの日本映画のイメージを覆す5本の登場である。『ハリウッド映画とくらべてお金を払うのがもったいない』とか『クライ感じがする』と考えている人にこそ観てほしい異色ぞろいだ」と書いてある。僕は観なかったが、そこには『ブルース・ハープ』『四月物語』『SFサムライ・フィクション』『ニンゲン合格』『鮫肌男と桃尻女』といったタイトルが並べられている。観ていないから評価は出来ないが、お金や時間をかけない映画。暗さを取ればテーマもなくなってしまう作品でなければいいのだがと心配してしまう。何しろ、『うなぎ』と『菊次郎の夏』に感じたのが、その二つの不満だったのだから。 (2000.04.27)

"The Thin Red Line "

・ 引っ越しがあって映画どころではなかった。山間部だからテレビの映りも悪い。BSアンテナを屋根の上に設置してもらってやっと衛星放送だけはきれいに見えるようになったが、昼間は片づけやストーブの薪づくりに時間を使ってしまうから、もう夜になると眠くなってしまう。しかし夜仕事をしなければ、頼まれている原稿も出来ないから、テレビもそこそこにパソコンに向かう。というわけで、本当に半月ぶりぐらいで落ち着いてWowowで映画を見た。
・『シン・レッド・ライン』は太平洋戦争を題材にしたジェームズ・ジョーンズの『地上より永遠に』を原作にしている。ガダルカナル島の高地に拠点を構える日本軍を殲滅する作戦。というと戦闘シーンを売り物にした映画のようだが、実際にはまるで違う。主題は、戦場で生死の淵をさまよう人間達の心模様である。監督はテレンス・マリック。映画関係者にカルト的な人気があるというが、僕はあまりよく知らなかった。
・映画は天国の島のようなガダルカナル島の風景と島民達の暮らしから始まる。そこに駐屯するアメリカ兵は、その平和な世界に心を洗われるように感じる。その光景と、いざ戦闘が始まってからの世界とのコントラスト。まさに天国と地獄。テレンス・マリックは映像表現に特徴があるようだが、そのようなことは見ていてすぐわかる。
・たとえば、壮絶な戦闘シーンの中に、ワニやトカゲやオウムを映したシーンが挟み込まれる。人間達がくりひろげる狂気とは無関係にすぎる生き物の世界。鳥の雛が卵からかえって動き始める。撃ち合いがあってばたばたと兵隊が倒れた後に生まれる一瞬の静寂。すると雲に覆われていた戦場に日が射し込んで枯れ草が黄金に輝く。戦闘シーン自体に派手さは全くないが、このコントラストが戦争の無意味さを際だたせる。背景に流れる音楽は全編鎮魂歌のように静かで暗い。
・兵隊達はふつうの精神状態ではない。不安感や恐怖感に震えが止まらない者、胃を痙攣させる者、手柄のチャンスに行け行けとがむしゃらになる大隊長と、無益に部下を死なせたくない中隊長。妻との別れのシーンを時折夢想する兵士。彼には、別の男と恋に落ちたから離婚してほしいという妻の手紙が届く。ひとりの寂しさに耐えかねたから。それではジャングルで闘っている男はどこに救いを求めたらいいのか。
・やっとの事で日本軍のトーチカを撃破すると、大隊長は前線基地までつづけて攻撃せよという。水はないし、兵隊の疲労は限界にきている。抵抗する中隊長と勲章を申請するからと説得する大隊長。瀕死の重傷を負った日本兵に「おまえはもうすぐ死ぬ」と語りかけるアメリカ兵。すると日本兵は「貴様もいつかは死ぬんだ」とくりかえす。アメリカ兵の頭に、そのことばがとりついて離れなくなる。
・戦争映画は、当然ながら、描かれているサイドにたって見る。しかし、相手が日本軍となると妙な気持ちになる。僕はそんな奇妙な感覚をノーマン・メイラーの『裸者と死者』を読んだときにはじめて体験した。この映画でも当然、同じような気持ちを感じたが、登場してくる日本兵がアメリカ兵と同じような心理状態であることで、敵味方の区別をして見る度合いが少なかった。互いに心をもつもの同士が殺し合う。そう描くことで一層、戦争のばからしさが際だってくる。
・『シン・レッド・ライン』はアカデミー賞の有力候補にあげられたが、結果はひとつもとれなかった。これだけアメリカ映画らしくなければ、それはそうだろうと思った。シーンが感じさせるのは何より、殺し合いの場に登場する人の正直な心と姿。これはアメリカ映画に一番欠けている特徴なのである。
・テレンス・マリックは映画を3本しか作っていない。しかも前作は20年以上も前である。『天国の日々』。リチャード・ギアが初々しい。貧しい男女が金持ちの青年に近づく。青年は女に恋し、結婚を申し込む。一緒の男は兄だと偽って同居する。しかし、青年は疑いを持ち続ける。嫉妬に駆られた青年は、イナゴの大群から小麦畑を守る最中に逆上して、畑に火をつける。青年は銃をもって男を殺そうとするが、逆にピックで胸を刺されてしまう。ひととき豊かで楽しい生活を送った男女の逃避行。で、追っ手に見つかり男は射殺される。この映画も映像がきれいで、これはア カデミーの撮影賞を取っている。
・それにしてもテレンス・マリックは20年間もなぜ映画を作らなかったのだろうか。2本続けてみても、20年という空白はまったく感じない。彼は次に映画をいったいいつ撮るのか。僕はこの監督に強い興味を覚えた。(2000.03.22)

"Buffalo66'" "Little Voice"

・Wowowでは毎月二日、第一土、日曜日に、その月に放映する新しい映画をまとめて放送している。「最強宣言2days」。ずっと見逃してきたのだが、たまたまつけておもしろそうだったので何本も続けてみてしまった。今回紹介するのはそのうちの2本である。
・「バッファロー66'」は奇妙な映画だ。無精ひげのいかにもさえない感じの男が、ゴムまりのような女の子を誘拐する。彼は刑務所を出たばかりで、両親の元に行くのだが、結婚したと嘘の手紙を書いてしまっていた。で、それらしい女の子が必要だった。一見ストーカーふうに見える男は、実は異常にシャイで、途中立ち小便をするシーンでも、彼女に何度も、「絶対に見るな!!」と繰り返す。
・ 家に着くと両親が暖かく迎えてくれるが、会話の端々に、男が育った親子関係のありさまが垣間見えてくる。母親はチョコレート・ケーキを出すが男は食べない。「好きだったでしょ!」というが男は否定する。「チョコ・アレルギーだった」。母親はそれを知ってか知らずか、男に食べさせ続け、彼はそのたびに顔を腫らしたらしい。回想シーンになると突然スクリーンの中心から別のウィンドウが現れ、そこに少年時代のシーンが映し出される。すぐに激昂する父親。フットボール観戦になると我を忘れる母親。誘拐された娘はしだいに男に好意を寄せるようになり、両親に妊娠しているなどと適当なことを言い始める。父親は理由を付けては娘を抱き寄せる。4人が囲むテーブルを、カメラはいつでも、誰かの視線で3人を映し出す。これもおもしろいカメラ・ワークだと思った。
・男は刑務所に入る原因になった奴を殺しに行く。娘が同行するが、モーテルではもちろん一緒に寝ようとしない。風呂に入っているのを覗かれるのさえ嫌うが娘は一緒に入りたいという。そんなおどおどした男だが、ボーリングをするときだけはさまになっている。で、殺しの実行、というところなのだが、空想だけでやめて、モーテルに帰る。彼女の大きな胸に顔を埋めたところでおしまい。
・リトル・ヴォイスは自閉症気味の女の子の話。好きだった父親が死んでから、彼女は部屋に閉じこもって、父親が集めたレコードを聞いているばかり。外にも出ないし、母親の呼びかけにも応えない。ところが、父親の幻影が現れると、レコードそっくりに歌い出して、周囲を驚かせる。ジュディ・ガーランド、マリリン・モンロー、シャーリー・バッシーと誰の物まねでもやってしまう。場末のナイトクラブのオーナーと落ちぶれたプロモーターが売り出しにかかる。少女はたった一回だけの約束で歌うことにする。客席に父の幻影を見つけた彼女は、とりつかれたように次々と歌って客席を魅了する。
・味を占めた大人たちは、彼女をスターにすることを空想する。しかし、どう説得されても、脅されても彼女はその気にならない。予定したショーが台無しになり、漏電で家が焼けた後、母親は彼女をののしるが、逆に少女は父親の死の原因が母にあること、それが原因で自分が小さな世界に閉じこもってしまったことを母親に吐き捨てるようにいう。彼女が心を開いたのは、鳩が好きで無口な青年だけ。
・前者はアメリカ、後者はイギリスだが、共通点の多い映画だと思った。マザコンの男とファザコンの女。どちらもきわめて感受性の高いナイーブな若者が主人公で、それゆえに屈折した育ち方をしている。そしてその原因の多くはもちろん、親にある。夫婦、親子の関係の難しさと、それを正直に反映する形で成長する子どもたち。どちらも地味な映画だが、問いかける問題は日本にも共通する、今日的で普遍的なものだと思った。
・「バッファロー66'」は題名の通り60年代だろうが、「リトル・ボイス」の設定はたぶん現在である。しかし、少女の家にはやっと電話が取り付けられたところだ。田舎町で労働者階級の住む地域のせいかもしれない。歌われる歌とあわせて昔懐かしい感じのする世界。そこでそれぞれの主人公がそれぞれの仕方で救われる。映画にありがちなエンディングといってしまえばそれまでだが、殺伐とした少年犯罪が頻発する現在の日本では、そんな懐かしさや救いは求めようがない。求められないとわかっていても、それでも求めてみたい救いの手。見終わって浮かんだのはそんな感想だった。 (2000.09.11)

"海の上のピアニスト"

・大西洋を往復する大型客船ヴァージニア号のなかで産まれた男の子が、ピアノの上に捨てられた。1900年。客の大半はヨーロッパからアメリカへの移民たちだった。彼は、船倉で働く黒人に育てられる。その黒人も仕事中の事故で死んで、父も母も知らずに船のなかで育った男の子は、やがてピアノの演奏に天才的な能力を発揮するようになる。「海の上のピアニスト」。原題は「Legend of 1900」で、1900は主人公の名前である。
・監督のジュゼッペ・トルナトーレは『ニュー・シネマ・パラダイス』で有名だが、「海の上のピアニスト」を見ながら、つくづく、情感に溢れた物語を描き出すのがうまいな、と思った。見終わった後の虚脱感。映画にそれだけ没入した証拠だが、こんな感覚を味わったのは久しぶりだった。
・ピアニストは生まれてからずっと船で過ごして一度も陸にあがったことがない。もちろん港につけば、ニューヨークやジェノバといった街の風景を間近に見る。そして客たちは続々と降りて町の中に歩き出していく。多くはアメリカへの移民で、自由の女神が見えると一斉に狂喜乱舞しはじめる。彼らにとっては夢の実現を願ってやってきた「約束の地」なのである。その様子をくりかえし見ながらも、ピアニストは、降りてみたいとすら思わない。彼にとっては船が一つの完結した世界で、彼はそこで十分存在感を確認し、また人びととのつながりも確信している。父や母がいなくても、それで寂しいということもない。そもそも彼には父や母といった存在が意味のあるものには感じられていないのである。多くの船員たちが彼に愛情を注ぎ、また客たちが彼に注目する。ピアニストはそのことだけで十分満ち足りていた。
・見せ場の一つは「ジャズ」の生みの親というピアニストとの船上対決。プライドの固まりのような黒人ピアニストとは対照的に、1900は全くの平常心。相手が誰であろうと、そこは彼の世界であり、そこに入りこんだら、誰であれ、彼以上にはなり得ないからである。
・けれども、そんな彼が一人の少女に恋をすると、彼女の後を追ってニューヨークの街に出て行こうかという気持ちとらわれることになる。船を降りることを決心して、仲間との別れを惜しむ。しかし、タラップの途中まで進んだところで立ち止まってしまう。で、帽子を放り投げて、また引き返す。
・船はその後第2次大戦中も航行を続け、やがて老朽化して廃船になる。バンド仲間のトランペッターはその船が爆破して沈められることを知り、まだ中にいるはずのピアニストを探しに出かける。しかし、ピアニストは船を降りようとはしない。
・彼の世界はこの船とピアノ。どちらも世界の区切りがはっきりしている。だからこそ、世界の大きさも自分の居場所も、その中での可能性も確認できる。限られた数の鍵盤と10本の指。その限定が逆に、音楽の創造に無限の可能性を持たせる。しかし、ニューヨークの街に一歩足を踏み出したら、その途端に、自分の居場所も、行き先も、そして何より自分自身の存在感が不確かになってしまう。彼にとってはあまりに大きすぎて自分が消えてしまいそうな世界。ピアニストはすでにピアノが撤去され、爆破されるだけの船に残ることを告げる。物語には必ず終わりがある。自分の人生の終わりを船とともに迎えるという決心をトランペッターも納得する
・評判を聞きつけたレコード会社が船上での録音を試みるシーンがあった。その時演奏されたのは即興曲で、たまたま窓の外に見えた少女に見とれながら弾いたものだった。レコード会社の者たちは、それが大ヒット間違いなしだと喜ぶが、ピアニストはその原盤を割ってしまう。録音された音楽など、彼にとっては聴く価値のあるものではないし、名声や富にも意味を感じなかったからだ。
・この小さな世界で生きた、俗物根性のまるでない存在が見せる充実した日々と終末。それは際限のない世界で生きる人間が苦慮する自らの存在感の確認や他者へのアピール、そのいつまでいっても果てることのないくりかえしとは極めて対照的である。そのような自分の世界を持ち得たことに羨ましさを感じるが、しかしまた同時に、船とともに海に散った主人公にたまらない悲しさを覚えてしまう。これは、俗物の世界にいささかうんざりしながら、なおかつおもしろさも感じている証拠なのかな、と思った。 (2001.01.22)

ダスティン・ホフマンの映画

・ ダスティン・ホフマンの映画をBSで続けて見た。『真夜中のカウボーイ』と『トッツィー』だ。両方とも何度か見ているが、懐かしかったので、ついついまた見てしまった。彼の映画を最初に見たのは『卒業』だが、ぼくの記憶に残る映画のなかにはダスティン・ホフマンが主演したものが少なくない。『スケアクロウ』『レニー・ブルース』『クレーマー・クレーマー』………。
・どの映画も、今見直してみれば、特に印象深い内容というほどのものではない気がする。それがどうして、記憶に鮮明に残っているかというと、やっぱり同時代観なのかな、と思う。彼は僕より少し年上だが、彼の演じた役柄は、いつでも僕にとっては同一化しやすいものだった。たとえば『卒業』は大学生の時に見たし、『クレーマー・クレーマー』を見たときには、僕にも同じぐらいの年齢の子どもがいた。それにもう一つは、タイムリーな社会的なテーマ。『レニー・ブルース』はアメリカに実在した漫談家だが、政治的な発言や性的なことばを吐いて、何度も警察に捕まった。そういう権力に屈せず信念を貫く姿をうまく演じていた。
・『卒業』は今見れば、どうということのない青春恋愛映画だが、大人たちとの対立や、教会での結婚式から恋人を奪い取るラスト・シーンは、当時はショッキングなシーンだった。そういえば僕が昔書いた本に次のような文章があった。

・ この映画が作られた時代は、社会のあり方、人間や人間関係のあり方について、若者を中心に、既成のものを疑い、新しいものを模索しようという動きがさかんに出されるような状況にあった。
・主人公が扉を押さえるために使ったつっかい棒は、教会の十字架だった。彼はそれで、花嫁の父や母、それにフィアンセから彼女を奪いかえす。親の希望通りに生きてきた素直な優等生は、そこでひとつの儀式を破ることで、親の手から自らを離し、古い自己との別れ、つまり『卒業』というもうひとつの儀式を経験する。この映画は、新しい世代の新しい主張の成就をロマンチックに歌いあげることで、この時代の若者の心や行動を代弁することに成功したと言えるだろう。(『ライフスタイルの社会学』世界思想社)

・いや本当に、ロマンチックな映画だが、それにリアリティを感じて見たのだから、ロマンチックな時代だったとつくづく思う。今はそもそも、儀式が儀式として成立しないのが当たり前になってしまったのだから………。
・で、『トッツィ』を改めて見て感じたのも、それがつくられた時代の意識と現代との違いだった。この映画は売れない俳優が女装してテレビのコメディ・ドラマのオーディションを受けるというもので、彼(彼女)は合格して、一躍番組の人気者になる。あとはそこで仲良くなった女優(ジェシカ・ラング)に恋心をもったり、その父親から迫られたりといった話だが、これも今から思えば、どうということはない。しかし、ゲイやレズといったホモセクシャルが話題になり、その社会的な公認の主張などがされていた時代に、そのような風潮に対して普通の人たちが感じた違和感やとまどいを中心にうまく描き出した映画だった。
・と、ダスティン・ホフマンの映画を見ながら、思わず、時代をさかのぼって思い返してしまったが、そうすると、たまらなく『クレーマー・クレーマー』が見たくなった。離婚に際して子どもはどっちにゆだねるのが適当か。映画では男の子は父親になつき、父親もまた食事の世話や学校の送り迎えにがんばったが、「父親には子どもを育てる能力がない」という判断が裁判所で出された。見ていてずいぶん腹を立てたのを覚えている。僕の子育てはもう終わって、今は卒業生が時折連れてくる子どもにおじいちゃんのように思われる歳になった。仲良く子育てをしているカップルにほほえましさを感じるが、時代の流れを強く知らされるのは幼児虐待や子育て放棄のニュースの方である。「ゲームをしていてじゃまだから蹴った」などという父親のことばを聞くと、ぞっとしてしまう。
・ロマンチックがリアルに感じられた時代が妙に懐かしくなってしまった。(2001.03.26)

"The Hurricane"

・『ハリケーン』は世界チャンピオンだったボクサー、ルービン・カーターの物語である。彼は10代の大半を少年院で過ごし、また30代と40代を刑務所で過ごした。しかもどちらも、黒人差別に根ざした不当逮捕。獄中から何度も再審請求をし、モハメド・アリやボブ・ディランが支援したが、却下された。そしてその主張が認められて釈放されたときには。ルービン・カーターはすでに50代になっていた。『ハリケーン』はその実話にもとづく映画で、主役を演じるのはデンゼル・ワシントン。僕はディランの歌で、その話を知っていたから、楽しみにしていた。
・ 映画は一人の黒人少年に光を当て、ルービンが書いた自伝への関心と、そのあとに作られる二人の関係を軸に描かれている。同じように貧しい家庭に育ったが、環境保護運動をするカナダ人たちに引き取られて、高校に通う。その幸運に恵まれた自分の境遇とカーターの不幸の違いが少年の心を突き動かす。そして彼の気持ちを全面的にバック・アップするカナダ人たち。
# 映画そのものはハリウッド映画の常套手段で、主人公の苦悩や挫折にもかかわらず黒人少年の献身的努力でハッピーエンド、例によっての法廷での感動的な弁舌といったもので、少年を支えるカナダ人はまったく非人格的といっていいほどに心の葛藤や日常生活を捨象して描かれているが、それでも、夢中で見てしまった。原因はやはり、ディランの歌にあったのだと思う。

ピストルが響いた酒場の夜
パティ・バレンタインが降りてきて
バーテンが血の海に倒れているのを見る
「たいへん、みんな殺されている!」
というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
なにもしなかったのに 独房にいれられた
だがかつては 世界チャンピオンだったはずの男

・ 改めてディランの「ハリケーン」を聴きなおすと、この歌が事件の経過を忠実に物語っていることに気がつく。バラッドとはまさにこういう内容の歌をいうのである。「みなさん聞いてよ、こんなことがあったんだ」。と語りかけながら、ことの真相や問題、あるいは結末を歌う。バラッドは新聞が登場する以前からあったジャーナリズムの原初形態で、それがフォークソングやロックに引き継がれた。おもしろいのは、その形式がラップにもしっかり残っていることだ。映画に挿入された同名の曲「ハリケーン」を歌うのはヒップ・ホップのザ・ルーツ他。

究極の犠牲を払うとはまさにこのこと
ハリケーンはずっと投獄されていたのさ
地獄の底に突き落とされ、刑務所の中で男は成長した

彼は自分のやるべきことをやり、リングの王者になった
話題になりはじめたハリケーンを当局の奴らは封じこめようとしたのさ
ヤツらは彼を陥れ、牢獄にぶち込んだ

・ことばは映像と違って簡潔だ。「血の海」の一言に、凄惨なシーンをイメージさせるのは受け手の役目だからだ。もちろん、そのことばに送り手が感情を込めることはできるが、それはあくまで、受け手がそれぞれにイメージさせるものに働きかけるにすぎない。一方映画はイメージそのものをつくりだすことで成り立つ表現手段だから、受け手は現実に近いものに直接立ち会うように経験する。そこにことば以上のリアリティを感じることもあれば、またかえってうそっぽさや陳腐さを受けとることも少なくない。『ハリケーン』でも、そういった作りすぎの描写にしらけたり疑ったりすることもあったが、また映画ならではというシーンも多かった。
・シーンの多くは独房でのカーターの表情。デンゼル・ワシントンの顔の演技は見応えがあった。絶望や希望、不安や安堵、怒りや喜び、そういった感情を微妙な顔の表情でどう表現するか。これは映像ならではの描写だと思った。
・映画俳優の仕事の特異性は、その演技を観客に対してではなく、カメラという無反応の機械の前で演じるところにある。それをいちはやく指摘したのはベンヤミンだった。観客は、役者が機械を相手にした演技を、あたかも至近距離で見ているかのようにして経験する。映画はそれが作られる場と公開する場が断絶していることによって成り立つ表現手段。そのことを自覚するのは写し取られる者だけであって、ふつうは観客は無自覚に見てしまう。デンゼル・ワシントンの演技に惹きつけられている自分を自覚しながら、時にボクサーになったり、弁護士になったり、刑事なったりするする映画俳優の仕事の奇妙さについて考えてしまった。 (2001.06.18)

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