村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング
加藤典洋『村上春樹はむずかしい』岩波新書
内田樹『村上春樹にご用心』アルテスパブリッシング
・村上春樹は僕が一番好きな日本人の小説家だ。歳が一緒だし、考え方や感じ方に共鳴することが多い。何より奇妙な世界に引っ張り込む、そのストーリー・テラーとしての力に魅了されてきた。ついでに言えば、二人とも国分寺に縁がある。最初に読んだのは『羊の冒険』で、そこからほとんどの作品を読んできた。そのいくつかは、この欄でも紹介してきている。
・『職業としての小説家』は、小説家としてデビューする前から現在までの道程をふり返り、小説を書くことや小説家であること、文学賞や批評に関することなどについて、けっして激しくはないが確信的な口調で語っている。芥川賞を取れなかったこと、ノーベル賞に毎年名前が挙がっていることは、彼にとってはどうでもいいことなのに、周囲の騒がしさにはうんざりさせられているようだ。文壇とはつきあわないし、何度も外国暮らしをしている。その距離の持ち方は徹底している。
・小説家には誰でもなれる。学校で勉強する必要がないし、訓練して資格を取ることが義務づけられているわけでもない。少しばかりの才能があれば、誰にでも小説のひとつぐらいは書くことができる。それが特に優れたものであれば、文学賞を獲得することもある。しかし、その後小説家として作品を出し続けるためには、才能だけでは足りない。不断の努力はもちろんだが、書くことについての好奇心を持続させることが必要で、それを実行できている小説家は芥川賞を取った者でも、ごく一部に過ぎない。文学という世界に対する謙虚だけれど辛辣な批判だと思った。
・僕は社会学やコミュニケーション論、あるいは現代文化論などをテーマにしている。研究者になるためには作家と違って大学で勉強する必要があるし、学位といった資格を取る必要もある。しかし、おもしろい仕事をするためには、ミルズが言った「社会学的想像力」のようなある種の才能が必要だし、対象に対して好奇心を持ち続ける持続力も不可欠だ。そのような意味で、物書きとして共通する要素も多いと言える。もっとも「文学的想像力」に欠けている僕には小説など書くことはできない。
・小説は書けないが、小説(家)の批評なら書けるし書いたことがある。これまでにジョージ・オーウェルやポール・オースターについて、社会学的視点から論じたことがあって、村上春樹論も書きたいなとずっと思ってきた。視点を見つけるのが難しくてなかなか実現できないが、他方で、村上春樹を追いかけ続けて、いくつもの批評を書いてきた人がいる。その加藤典洋が『村上春樹は難しい』を書いた。確かにそうだと思うが、彼の村上春樹に対する執着ぶりとその深読みには改めて感心し、また日本と世界における村上春樹の位置づけの歪みに対する解釈にはなるほどと思った。
・村上春樹は文学的には評価できないが、大衆受けするベストセラー作家である。日本の文学の世界ではずっとこのように評価されてきた。ところが、世界中で彼の小説が読まれるようになり、毎年ノーベル賞候補に名前が挙がるようになって、そんな批判が影を潜めるようになった。しかし、村上春樹の成功にあやかろうとするような論評はあっても、文学的に再評価しようとする動きはあまり見られない。
・村上春樹は近現代の日本文学の異端者である。それは村上本人が自覚し明言していることで、実際、彼の小説の魅力は、それまで多くの作家が戦ってきた日本のローカリティに対して、最初から離脱してしまうという位置づけにあった。それが村上批判の根本だが、だからこそ、世界中に多くの読者を持つことにもなったのだと言える。ところが加藤がこの本で試みているのは、改めて村上を、日本の近現代文学の枠内に位置づけることなのである。
・もう一冊、内田樹の『村上春樹にご用心』は村上大絶賛といった内容だ。読んで一番興味を持ったのは、フランス語に訳された作品を彼自身が日本語に訳すと、村上の原文とほとんど同じになったという点である。村上春樹は高校生の頃から英文で小説を読み、翻訳も多く手がけてきた。しかし、その日本語的ではない文体は、自然に身についたのではなく、意識して作り上げたものである。一度書いたものに何度も繰り返し手を入れる。その作業の大切さやおもしろさは、『職業しての小説家』でも詳しく語られている。
・内容的にも文体的にも、日本のローカリティやそこに立つ近現代文学から「離脱」(デタッチメント)する。そんな姿勢から「関わり」(コミットメント)に変わったのは阪神淡路大震災とオウム事件がきっかけだった。また東日本大震災と福島原発事故についても、折に触れて発言をしている。そんな変化が、小説の中でどのように現れているのか。もう一回、村上春樹の小説をすべて読み直してみようか、という気になった。